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Essay Fragment/日々のうた織り ③ イージーボール

◪  一瞬を堰 (せ) きとめる 

これじゃない!これが大賞に選ばれる絵だろうか。
高校生による絵画の公募作品展の会場。大賞 優秀賞の幾枚かの絵の前で、私は首をかしげた。感興 ( かんきょう ) に任せ選んだ私にとっての3作品の方は、すべて入選どまりの絵だった。
色がときの肌を映し、色がときの唇を結んでいる。
筆触が何かを引きちぎり、筆触が何かをねじ込んでいる。
これだ これなんだ!
私にとっての3作品にはそれがあった。
歌枕の風景を求め歩いて、自分のうたをそこに調べようとするのは、知恵の敷き写しにすぎない。それは青春の感性とは対極にあるものだ。
 
天によって確かにそこに今打ち込まれたような、そこからはもうどこにも進みようもない一瞬との出会いは、青春の感性だけがもたらす。
生きる一瞬とは進行形でしかありえないのに、「今わたしは 生きた」と過去形で降ってくる一瞬がある。青春の感性をもってしかできないのだ。その一瞬を全きありようで堰 ( せ ) きとめるのは。
 
                                   ※歌枕―多くの人が詩歌によみ込んだ名所旧跡。

洞爺湖湖岸の彫刻

◓ イージーボール 

アマチュアのテニスの試合を見ていた。翼のはばたきのように、こちら側の青年の軀 ( からだ ) が閉じたり開いたりして、強いボールが相手コートへと跳ぶ。
向こう側は拾 ( ひろ ) うのがやっとというふうにしか見えない。返ってくるのはイージーボールだ。強いボールが再び打ち返され、幾度かそんな繰り返しが続いた。
ラリーの決着は意外だった。
少しだけスピードの乗ったリターン一球が拾えず、はばたき過ぎた翼は、最後に力なくだらりと垂れ下がった。イージーボールはカモフラージュだったのか?
けれど次のセットも全く同じ展開だった。初めからあった実力差?粘り強さの賜物?テニス素人の私にはわからない。でも向こう側の選手に余裕があるとは見えない。強い球の軌跡を拭 ( ぬぐ ) うような、リターンのイージーボールの曲線が目に残る。

その曲線が自分の人生に見えてくる。
( 毎度毎度。どうにかこうにか打ち返して来たな )
( 来た!イージーボール なんて瞬間はなかったな )
 納得しきれない面持 (おもも ) ちで軽く素振りしたあと、強いボールを打ち続けた青年は明るく微笑んだ。試合には敗れた青年の心の内の方を、私は羨望 ( せんぼう ) していた。

                                                        令和6年2月                瀬戸風  凪
                                                                                                 setokaze nagi
 

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