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コーマック・マッカーシー『血と暴力の国』

『Everything,Everything,Everything』はもともとAIについて歌った歌で、やっぱりボーカロイドが歌うべき歌だったんだね。こういうことは時間が経たないと分からないときがある。当時のDTM能力ではボーカロイドなんて当然使えないしどうにもなんなかったろうけど。
ジャケはHave a Nice Day!としての表現の連続性を維持するためにパブリックドメイン絵画を使用してる。自分でボーカロイド的なイラストを書きたいという欲望もあったんだけど、それはSt. Night Poolでいつか密かにやればいいかなと。

自分で歌を作ったりトラックを作ったりしてるとそれをどう作ったのか思い出せないっていうのはよくあることで。手順は何となく辿れるが「なぜそのメロディ・フレーズになったのか」、場合によっては歌詞の成り立ちさえも曖昧だ。つまり二度と同じものはできないんだな。もちろん経験という蓄積もあるが、少なからずゼロから出発する感じはつねにある。制作はまずは何もない場所に迷い込むところから始めないとならないね。
『COWBOY TRACK 17』は『血と暴力の国』を読んだ直後に作ったトラックで、自分のいまの気持ちを記録しておくべくジョシュ・ブローリン演じるルウェリン・モスを想起させるトラック名にした。制作の経緯を辿る方法はこういうカタチで残しておくしかないんだな。『EVIL TRACK 18』はそこからさらに派生させてハビエル・バルデム演じる殺し屋のアントン・シガーをイメージしたトラック名。

コーマック・マッカーシー『血と暴力の国』。映画『ノーカントリー』の原作小説。映画のほうは10回くらい観てるんだけど、何度観てもなんとも捉えられない部分がいくつかあって。それに対しての答えを求めていつか原作を読もうとは思ってたんだけど。最近になって本を読むのがけっこう楽しくなってきて、いろいろ読みたい本を探し始めたんだけどコーマック・マッカーシーの本が面白そうなのでこの機会に読むことにしたんだよね。ちなみに初めて観てめちゃくちゃ面白かった映画は何回もしつこく観ないようにしたほうがいいかなと個人的に思ってる。『ファイトクラブ』も『セブン』も『インセプション』も『パルプフィクション』も『ブレードランナー2049』も初めて観た衝撃を二回目以降は超えることができない。それは作品のせいじゃなくて初めて観た自分の感覚を自分自身が更新できないからだ。この場合は“最高だった感覚”を更新する必要も特にないわけだし。オレはしつこく何回も観る映画は初見では何が起きてるか理解できなかった作品にかぎるようにしてる。

実際に『血と暴力の国』を読んでみると映画への再現性が高くて、やっぱり分からない部分は分からないままだったけど、この映画を初めて観た時に感じた“世界への不気味さ・不可解さ”を再び強烈に感じれた。というか時代が変化して物語に新たな意味が生まれている気がする。
作品の中で“運”や“悪運”といった言葉が何度も出てくる。過剰な説明や高いスペックや戦略的な聡明さ、それに対するストイックな努力・頑張りが求められている現在の世界とはやや乖離した言葉だ。そしてそれはシガーという“純粋悪”を通してもたらされるんだけど、そこには傍観することを許さない圧倒的な当事者性があるのもSNSに慣れすぎた現在では見えなくなってしまった視野だ。シガーの冷酷さには安易な嗜虐心や憐憫がなく、彼の行動原理にはある種の痛快ささえ感じられる。スマートな仕事人、カーソン・ウェルズがあっさり殺されてしまうのも暗示的で、シガーの前では彼のような余裕のある“洒落の通じる男”さえまるで無力だ。初めて『ノーカントリー』を観たときはこのカーソン・ウェルズの存在する理由があまり分からなかったが、いまは彼がいることによってシガーがいかなるものなのかをより強く理解できる。つまり特別扱いをされる人間は一人もいないってことで、この意味はこの本が書かれた当時よりも重くなっている気がする。

『血と暴力の国』そして『ノーカントリー』は世界(もしくは人生)の根底に流れている原理を説明しようとしている。いや、結局説明すると不可解になっちゃうから説明になってないんだけど。だからこの物語は全体として不可解なんだろう。あと保安官ベルは古き良き時代と新たな時代の狭間にいる人間だけど、世界はずっとこの狭間が存在してる状態にあるんだろうね。

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