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大人になるって?


毎日が規則正しく過ぎていく。
Kのいないまま。
屋上でぼんやり、本から目を空に向けると、青空の白い三日月と目があった。
それがKだという、何の根拠もない思い込みで、私はKに見守られているかのように感じる。
Kは夢には出てこない。でもふとした瞬間に、やっぱり、昔、できたかもしれないことや、彼が泥酔してだらしなく泣いている時、寄り添って話を聞いてあげればよかった、とか、いろんな後悔の渦に巻き込まれて、寝付けなくなる。
気持ちよく晴れた春の昼に、なぜか涙がこぼれる。

Kと私は、お互いの愛情を、大人げもなく必要としていた。それは、いわゆる「愛着障害」だったのかもしれないけれど、愛情を必要以上に必要としない人なんて、いるのだろうか?
幼児はみんな必要以上に愛情が必要だ。
というより、愛情に必要量など、ない。
どれだけでもほしいものだ。
それは大人になっても同じだ。
どうして平気なふりをしないといけないのだろう?平気ではない時に。
ほとんどの人は、きっと、平気ではないよ。
平気でないのに、もっと愛情を求めることに躊躇し、それを隠し、なんとか平気なふりをする。
仕事に打ち込んでみたり、趣味に没頭してみたり。
でも、親以外の誰か他人に無条件に愛されたいと思う。
Kはそれをしてくれた。私はその無条件の愛にどれだけ応えられただろうか?Kが逝ってしまう寸前で気づいたその無条件の愛を、どれだけ返すことができただろうか?

人は、別の人の世話を、いろんな日々の世話を焼いてこそ、完全になれる、そしてそれが大人になるということ、のような気がする。

だから、それは自分が生んだ子供である必要はない。老いた親の介護でも、病気の家族でも、パートナーでも、友人でも、赤の他人でも、誰か自分を必要としている人のために、無心に、無条件に、無償で、そして、それがいつまで続くかわからない不確実な日々の中で、世話をするということだ。

大人になったからといって、えらい、というわけではない。
でも、どこか人間として完全な存在に、少し近づいている気がする。

そして介護される側も、介護してもらうことに心を開き、ガードをゆるめ、人の世話になることを、人として生まれてきたことのしあわせの一つととらえられるといいのだろう。それも、人として完全になる最後に必要なかけらかもしれない。

自分もいつの日か、誰か知らない人に介護されるかもしれない、その時、それを嬉しくありがたく受け入れられるかな。

はたして、大人=大きな人、になれるかな?

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