透明人間_不透明人間

透明人間は見えない。不透明人間も見えない。

また不可視な存在といえば、姿はありきたりで気に留めることがない場合もあるかもしれない。逆に、魅力という点で何もなく「アンテナ」が動かないとか、場合によっては意識することが面倒に巻き込まれるようでファスト回路上受け付けようとしないとかだろうか。

どちらにしても人間はあまり見えない。要は、他人から私などは見えとらん。第一印象に、世界がものがたりされている。現実が見えなくて幻影が見えている。


「自分」と「私」は違うもの。「自分」は身体こみのもの。「私」は概念的なもの。人間個人の幸せは、身体のある「自分」的な生き物的な充足のもの。セロトニン的。「私」にとってのそれはこだわりで、生物的にはともかく、概念的な満足で、ドーパミンとかアドレナリン的。

理の反対は天の理だ。天の理は理不尽でもある。自然に生成して与えてくれたりもする。「時と場合による」が究極ワードだ。全く中身がない。

利己的とか利他的とか、それだけだと話がねじれやすい。なので、問題に対する向きで考えるのを加えたらどうか?内向きか外向きかと。

まず説明しやすいのが、自分の問題で手一杯というふうな人。自分の問題を解決していかなければという選択が優先な人。それは当然社会のために私が問題ないようにしていきたいと。次に社会のために私が問題を軽くしていこうとする人。この段階で利己も利他もない。


21世紀生まれの人(21生)は何か違うと感じる。2020年代も時代の様子が大きく切り替わったと感じる。

僕の視界にいる(21生)メンバーは少なく、予想するにはサンプル数が少なすぎるのだが、個人の語りなのでそう断った上で図々しく進めてしまう。

(21生)は違うな、何が違うのだろうと考えていた。おそらく意識が現実世界に開いている。素人の解釈だけど、鬱の器ではなく統合失調症の器というか。外部が問題なのだ。だから親ガチャだとかいうことになる。

(20生)は鬱の器が多いと思う。というのは、新しいものを知っていて、信仰にあたるブランドや神を持っているからだと思う。オシャレじゃなきゃ私がわからないという人がそうでなくなったら私が消えて私が問題になってしまう。そうしたら鬱になるのだろう。

90年代はそのピークだったと思う。Jリーグだとか、インターネットだとか、新しい存在がやってくる時代だった。なにかや誰かが一人勝ちする時代だった。だから僕らはニッチポジションを得て、キングにならなければ無なのだろう。ミーハーというのは信仰だったのだ。


(21生)が小学生になる頃にはもうスマホが町の中に存在していた。彼らにとって、インターネットは新しいものでも特別なものでもない。テレビや漫画やアニメとか、媒体の新旧に差がない。ネットだから新しい未来が感じられるとか、テレビだから旧来のスタイルだとか、過去的な進歩観がない。特に00年代終わりから10年代前半の、ネットは世界を変えると喧伝されたグローバリズムに乗れていないのではないかと感じている。(20生)が、テレビが世界を変えると今いわれたとしても、強引な話だなと思うようなもの。何を今更、前からあるのにと。

(21生)は、グローバリズムの外ということではなく、すでに行って帰ってきているように思える。ここは今年話題の九段理恵さんの小説でも感じるのだ。要は20年代は、グローバルポスト状態なのではと思う。

少なくとも僕の前にいる(21生)で思うのは、むしろテレビや映画館で観ることが本体のように捉えている気がする。スマホはいじけているような、暇だからするようなすっきりしたものではないのかもしれない。

前向きであればテレビドラマを観るとか映画館で映画を観るとかなのかもしれない。安く観れればとかではなく、好きであれば、日時の条件があっても、わざわざしてでもそうしたいという趣味としてみれば上位にあるようなものなのなのではないかと。嗜好性にはそういった価値の上位が問題だろうから。

この違いは大きいのではと考えた。


80年代あたりには、学歴社会に進めという流れが全体を支配していた。また80年代であれば「バブルに乗れ」で流れが統一されていたと思う。

壁の崩壊でグローバル化が支配的になった90年代以降、(象徴として例えると松岡修造氏のような)熱くてムキになる側と、無気力でファッションで身を固めないと私がバラバラになってしまう側(ネット2.0初期らしい洒脱)と、2つ分かれていったように思う。

どちらでも、うまく「私」を捉えられればよいのだが、うまくいかない人が増えると社会が分断していくものだろう。体制に従えというドS世界のドMと、正さブランド神にすがる「私ものがたり」酔いに分断されるのだろうなと。既存の共通項にこだわる側と、それまでのものを嫌う新しいもの好きの側と。

でももう新しいものはない。(21生)にとっては。20年代はそれのポスト状態なのではと予想してみている。


その傾向から考えると、人々は、困った社会だと思うようになるのではないか?多分もうだいぶそうなっている。新しいか古いかを問う困った社会だ。そんなものはないのに。ネットが人類を変えるとかテレビは権力とつながるとかそんな違いはない。単なる選択であって、インフラや媒体そのものは、なんの時代でもない。

僕の視界に入る、不思議なくらいしっかりした様子の(21生)は、時代に惑わされずに自分の選択ができているように思う。それが不思議に感じている。この歳でそういう感覚とか心得とか、なんだかすげえ人生になりそうだなと。

とはいっても時代の空気のようなものはどうなっていくのかわからない。AI は正確なのだとしても、嘘がつけないということか? 嘘がつけないのだとしたら、嘘も方便という他者の助けになることが、人々から遠ざかっていくのか? だとすれば言葉はさらに無機的になって、ドSになって、優しいディストピアに向かうのだろうか?

人間の行動なんて何も見えないよ。人間が見えるなんて思い込みだ。誰も私をどことなくしか見ていない。

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