パラレルな自分を産む教育を視察した

アイスランドの学校ではインクールジョン?ダイバシティ?教育をしていた。編み物をしながらテレビドラマを見ていた。もう一回言います。「編み物をしながらテレビドラマを見て」いましたよ!!!!! 学校の授業で。

よくよく考えないと価値がわからないし、疑い閉じる人も多いのではと思う。対話教育よりも実は人類的な知育なのだ。「編み物をしながらテレビドラマを見る」ことが。


養老博士の「唯脳論」を読んでもらうと話がはやい。説明を頑張ると話が長いので、カットする。「ファストアンドスロー」や「社会はなぜ左と右にわかれるのか」など、引用文献として主役的存在の本でも同様の構成が読み取れる。

端的に、思考は一段階ではないし、およそ二つで一個もんと考えられている。

日本語の場合は特に、話し言葉をそのまま文字起こししても支離滅裂だろう。耳から入ったものと目から入ったものでは、脳の処理する場所が違うらしい。読書でも、言葉を認識するように読む時と、短期記憶するように読むのではまるで違う。

文字を見て書いてある内容を認識していく場合、自分の認識の仕方にあったものが捉えられていく。自分フィルターが強い。短期記憶式に読む場合は、書いてある文字に自分の頭の中を合わせる必要がある。この読み方をした場合に、読書によって大きく思考を変えることができる。別の思考を自分の中で真似をしたからだ。「パラレル」を手に入れる。

名画を眺める時もそう。時間をかけていつもより抵抗値をかけるようにしてゆっくり眺めたら、見え方がふっと変わってくる。脳回路さんが反応する時間を待ってあげる/あげないで、頭の働き方は違ってくるし、捉えられるものも違ってくる。知覚であっても素材さんの速度に合わせるかどうかだ。


「編み物をしながらテレビドラマをみる」ことで、運動系と知覚系の二系統を同時に使用する。二系統同時は可能なのだが、一つの系統で二つの作業はできない。僕はできない。数を数えている横で違う数字をいわれたら台無しになる。

その時、数え方を数字を読み上げる声ではなく、数字の画、例えばサイコロやカレンダーを浮かべてそれを見ていたとしたら、耳から違う数字が入っても乱されない。(確かファストアンドスローに出てきたエピソード) なかなかうまくいかないけれど、まぁ、できなくはない。筋トレでその方式をやっている。

散歩をするとアイデアが浮かぶ。それなりに体を使っているので、そのぶんは頭が使われている。イメージに邪魔されず、優先度の高いことしか扱えなくなるので、考えがまとまる。

言葉を一旦横に置いて眺められる。+余計なイメージに邪魔されずに考えることができる。環境を感性で捉られる。イメージではなく現実から発見できる。


人間間で問い合うことも大事だが、人間世界から脱すること、環境や状況との親和の能力、感性の使い慣れは、インクルージョン式だろう。

アイスランドで活躍するヒトの多くは、人生を二つ三つ同時に生きている。複数の人生がパラレルにある。テクニックの人生と頭の人生と持っている。

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