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日常系SFジュブナイルの冒頭ふう

どうやら僕は、生活は切ないものと感じていたようだ。そして人生は悲しいと感じていた。子供の頃からそうだったと思う。令和になって、そんな気持ちを超えるため、大人になる必要があると思うようになった。

今の僕とは少し違う、本来の今の自分があるとする。それに対して不足している、僕の生活態度を身につける必要があるんだ。これまで生きてきて本来だったらやってきたことを、やっておかないといけないんだ。


全然違うことで例えると、専門的にやること以外は、むしろそれ以外の周囲にあることを学ばないとわかるわけがないとか、専門でやるにしてもその外を知った上で中を学ばないと、本来の役割にたどりつかないようなことだ。

わかりにくいとしたらこれでどうだろう?社会の中にあるものがなんなのか、なぜ社会に必要なのか、社会をまるで知らなかったり興味も湧かないのなら、専門的に学んだってそれがなんなのかわかるわけがない。

専門にやることというのはドーナツの穴のようなもの。専門家じゃない人のほうが、その専門家を必要として、穴を作っているわけだ。


例えから元に戻すと、僕は、僕を振り返ってみて、やり残した宿題に気づくことができるんだとわかった。そしてそれを無視してしまうこともできるのだろうけども、僕の心が切ないとか悲しいとか感じていたのはそのやり残しがあるからで、ドーナツの穴は心の穴なわけだ。だから、なるべく取り残さない。

子供の頃に戻ったとして、大人になるために子供の僕はどうしたらいいのか、今の僕なりにわかる。それを身につけていく。これは、真面目なことは日常の生活態度の、不真面目なことは人生の気分の穴を埋めていく。多分そうだ。最近の気分が違ってきたのは、こういったことだったからだなと思ったから。


だいたい、なんでもできる人のことをポンコツなんて言わない。幅広くやれるようになったらいい。いや、本来の幅広さを取り戻すのだから、余計なことをしてとっ散らかるのとは違う。

しかもそれって、本来僕にできるはずのこと。やっていなかったというだけで。つまりやればできるようになることをやる。何かができるようになるのは、それだけでも楽しい気持ちになる。

だから僕は、過去に戻ることにした。



過去のSF小説を読むことにした。過去に戻る方法を知りたいのならSFだし、過去に戻るのだから過去の作品だろう。というのはこじつけで、読んでみた後でこれでいいんだと気がついた。

とはいっても、「こじつけることができた」とは思っていない。こういうものを指す言葉ってなんというのだろう?

やめよう。言葉を基準にして現実をとらえるから問題なんだ。だから不自由で、時間移動も条件変更もできなくなってしまうんだから。だって逆に言えば、小説を読んでそれを現実のように想像できるわけだから。感性は言葉に負ける。いや負けるという言い方は小説にも悪いし、どうにもおさまりの悪いものだけど、だからこれが言葉だ。


1950年代から70年代のSF小説を読んだら、その線の基本が身についたようだ。その中間にある80年代以降の作品も、テイストが変わっていくくらいなのがわかって、この数十年の時代変化が感じられるようになった。

このように小説を読めばそれは感じられるけれど、よく考えたら、過去にキャッチし損ねていなければ身についていた感覚なんだろう。

このようにいうと後悔風だが、小説をこのように読むことは解決だったし、小説に限らずにこういう構成でいいのだ。70年代よりもさかのぼるといえば、他の学問でも、70年代に基礎があるものがやたら多い。


それにしても、人類はかつて「タイムトラベルもの」のようにして時間移動をすると考えていたのだと驚く。いまだったら作れない話だろう。時間移動してみるとわかるけど、前後移動じゃなくて横移動だもんね。行って戻ってきたのがセットになったものがそれだ。

つまり、あったかもしれない私の人生。パラレル移動をかつては知らなかったんだ。いやその必要がなかった。

なぜなら、理想的に描かれたかつての10代は、感情に振りまわされないような大人になろうとしていたらしく、今でいえばあったかもしれない状態に進んでいくのが成長だと、世の中の雰囲気がそうなっていたようだ。


一回そんな過去に戻ってみると、今の人々は過去の人から見たらめちゃ未熟ちゃんなのだと思う。どうやら昔の大人は食べ物の好き嫌いをいうものではなかったらしいし、どこかにいくとか楽しさを買うとかじゃなく、能力が身につくことが楽しさだったらしい。

そうではない人もかなりいたみたいだけど、でもちゃんとしようとしていた人はかなりちゃんとしていた。ちなみに、「ちゃんとしよう」と心に思うことと、「ちゃんとしよう「よ」」と他者にイラつくことはまるで違う。ここが過去からすると、成熟と未熟の差だったようだ。


それと今でもまだ、時間移動や条件変更を勘違いしている人が多いのがわかる。確かに時間移動を経験したことがなければどういうことかわからないだろう。僕もそうだったし。

人生を変えるということはこれまでの私ではなくなるということではなく、不足しているレイヤーを完成させていくこと。これがパラレル。これがあったかもしれない私の人生を私に、というやつだ。

生まれたところや時代だとかを捨てるのではない。それは「仮の」「基準(値・枠)」として捨ててはならない。じゃないと時間移動や条件変更のための仮基準もなくなって、どうにもならなくなる。

地方からの人口移動や、都市を「見限っての」Iターンとかは、私をリセットしてしまう。リセットではなく、新シーズン開始ならいい。好きなドラマなら途中から入っても最初から見るでしょ?はじまりから逃れたら完成しない。

リセットしちゃうと私の人生は私の人生の本体ではなくなってしまう。幼い頃に感じられた、または感じられるはずだったものを忘れてしまう。人生が色褪せてしまう。ていうか、私の事情がよくわからないまま私の物語が進んでしまう。



僕には真面目な面もあるが、不真面目な面もある。それもちゃんと成長させておかないといけない。

過去に戻ってみると現代人がどういうものかがわかってくる。めちゃくちゃ欲望に生きている。優れた下半身をしている人が、生きやすそうにしている。

グローバル経済もそうでしょ。欲望ではつながっているけど、国境ごとに理屈を言い合ってる。先にやっちゃって、切れないし揉めてるわけ。とにかくこういう時代が2010年代だったの。


僕はなにをし忘れたのだろう?

・・・たぶんはなしは終わり。唐突に。

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