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5月は「3つのなくしもの」

5月4日、晴れ。風が強い。

ベランダ越しにお隣さんと、そのまたお隣さんの様子をうかがうと2軒のべランダには洗濯物も布団も干されていなかった。

「この風だもんなぁ」とつぶやきながら、両手に抱え持った羽毛布団をべランドの手すりにブワッと広げてかける。「今日干したら、押し入れにしまおう」と思いながら風で飛ばされないように、ストッパーを左右に2つつけた。

たまに靴下の片方だけ、どこを探してもなかったりするのは、こんな風が強い日にどこかに飛んでいってしまうからだろうか。家のまわりにそれらしきものは落ちてないから、あっちに飛ばされ、こっちに飛ばされして、あちこちを放浪しているのかもしれない。

持ち主のもとに帰ることはないであろう靴下の片方を不憫に思いながらキッチンへ向かった。紅茶を飲もうとやかんを火にかける。


青い炎がやかんの端からチロチロと顔をのぞかせたので、火の勢いを少し弱める。紅茶のティーバッグを取り出そうと、キッチン上の棚を開いた。

ティーバッグを左に持ったまま、シンクにこびりついた水垢をジッと見つめる。昨日起こった、いくつかの出来事がボヤッと頭に映像をつくる。これは夢じゃなく、本当に起きたことなんだっけ。記憶は鮮明なはずなのに、それらは夢のように輪郭がぼやけている。



頭の中で整理できなくなると、紙に書きだすといい。そんな話を聞き、数年前から実行している。

複雑化している仕事の内容。関わり合っている人と人の関係性。本当はずっと嫌だと思っていたこと。そう思う理由。

紙に書いてみると、何が問題なのか、何を期待していたのか、そこに何があるのが浮かび上がる。

昨日起きたことも、そうしてみよう。そう思った。



5月3日(月) 財布をなくす

財布を落としたら、大変なことになる。心臓がゾクッとするくらい。

でもいちばん大変なのは、お金がなくなることじゃない。大変なのは財布に入れていた別の大切な物がなくなることだ。クレジットカード、免許証、領収証、診察券、会員証…。これらは、なくすとややこしい手続きをしなきゃならなくなる。すごく面倒だ。

私の場合はお金やクレジッカード、免許証をなくしたことへのショックと面倒さを思っての憂鬱な感覚に加え、5年大事にしてきた財布そのものを失ったことに唖然となってもいた。


5年前に失った恋人からの最初の贈り物。

恋人を思い出すことなど、ほとんどなくなっていた。だから単純に手に馴染み、使い勝手がいいのが捨てられない理由だろうと思っていた。

「なくなってみて初めて、その大切さに気付く」

よくいわれることが、自分の身に起きたことにさらにゾクッとなった。




5月3日(月) 友人の夫がいなくなる(正確には2週間前に)

私は結婚していて、子どもがいる。そして同じような生活をしている同い年の友人がいる。小学校からの長い付き合いで、家族よりも身近な存在だ。それぞれ人生の浮き沈みを経験し、一時的に疎遠になることはあっても、それとなくヨリを戻し続ける腐れ縁のカップルのように、安定感のある関係を続けている。

その友人の夫が、失踪した。

連絡がとれなくなったのは2週間前だ、と友人はいう。警察に事情を話し、考えられそうなところに連絡をし続けた。休暇をとり、安否を知らせる連絡や夫の帰宅を自宅で待ち続けたが、10日ほどたつと「待っていても仕方がない」と思い始めたという。

2日前から仕事に復帰している友人は、半年前に会ったときより少し痩せていた。

失踪当日の午前中まではLINEで連絡がとれていたようだが、夕方以降勤め先を出たあとの足取りはつかめていないという。

「女の人のところにいった可能性は?」と思い切って聞いてみると「私も考えたんだけど、たぶんないと思うんだよね。だから余計に心配で」と友人はいった。

会話の最中に友人のスマホに着信があったが、夫からではなかった。「おつかれさまです」と電話にでた彼女が少し生き生きしているように見えたのは、私の見間違いかもしれない。


彼はどこに行ったのだろう。


5月3日(月) ひったくりにあう

午後16時。友人と待ち合わせをしていたカフェに向かう途中で、ひったくりにあった。

ひったくりは後ろから小走りに近づいてきて、肩掛けしていたかばんをサッと引っ張り、走って前方に逃走するもの、というイメージが私にはあったけれど、そのひったくりは違った。

「すみません。あの… かかと。血が出てますよ」

後ろからした男性の声に振り向くと、20代後半くらいと思われる人物が申し訳なさそうな顔で立っていた。

パンプスを履いた自分の足を見下ろすと、左のかかとからうっすらと血がにじんでいる。嫌な予感はあったけれど、痛みからして「出血するほどではない」と思っていたので、素直に「え、こんなに?」とギョッとした。


同時に「なぜわざわざ話しかけてきたのだろう?」と不信に思った。

その気持ちが顔に出てしまったのか、男性は「これ、良かったらどうぞ」と絆創膏を差し出した。

人を信じられなかった自分に嫌悪感を感じた私は、その絆創膏を受け取る。「どうもご丁寧に、すみません」そう頭を少し下げると「あ、じゃあ」と男性は足早に立ち去った。

「いい人もいるもんだなぁ」と見送る。

友人の待つカフェに向かおうとしたが、近くに4人掛け程度の長椅子があるのが見えた。

そこは駅ビルに併設された商業施設だったから、座って休める場所は意外と多かったのだ。

ちょうど誰も座っておらず、待ち合わせまで少し余裕があったので、ここで絆創膏を貼ってしまおうと思った。

椅子の端にかばんをおろし、その横に座って先ほどいただいた絆創膏を取り出す。絆創膏のフィルムをはがし、少し前かがみになって左手で左足のかかとに絆創膏をはりつける。

位置を定めるのに少しとまどいながらも、ちょうどいいところにはれたと思った。

作業が終わり、顔をあげたときに違和感を感じた。

右横に置いていた自立式のトートバッグがない。

瞬間「盗られた」と思い、立ち上がって周りを見回した。

けれど私のバッグを小脇に抱えた人の姿は見当たらない。10秒もたたないうちに人のかばんを盗むなんて、並みのやつじゃないな…。

怪盗ルパンを追い続ける銭形警部のような、一種相手をたたえるような気持ちになってしまっていた。

パンツの前ポケットに家の鍵を、後ろポケットにスマホを。ジャケットの内ポケットに財布を入れておいたことだけは、幸いだった。

だが、先月買ったばかりのiMacが手元に戻ってくることはない。パソコンは返さなくていいから、どうか16万円を返してください。


私は、ひったくりに合ったことを友人にはいえなかった。「夫が失踪」という重い話を、さらに重くしてしまいそうだなと思ったから「あれ、かばんは?」と聞かれて「手ぶらが好きだから」とクセのある言い訳をしてしまった。


私はこのあと、財布をなくす。

思い出すのに少し疲れて、冷めた紅茶を口にする。


(フィクションです)

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