肥田春充ノート 2

肥田春充(ひだはるみち)の生い立ちは、前回ご紹介したように、大変不幸なものであった。
生来非常な虚弱体質で何度も死にかけ、また精神的にも鬱屈していた。兄弟たちも同様であったのだろう、春充6歳の時、7人兄弟のうち5人が相次いで亡くなり、母親までもが他界してしまった。医者である父親にもどうすることもできなかったものと見える。思えば、妻子を救うことのできなかったこの父親こそ、最も不幸な人ではなかっただろうか。
それにしても「茅棒(かやぼう)」と周りの子供たちから蔑まれたこのような少年が、何故発奮し、人々のために尽くしたいという大志を抱くまでになったのだろうか? 謎だと思われないだろうか。

春充の父・河合立玄は、江戸時代末期に、長州(山口県)の寺侍の子として生まれた。寺侍とは、格式の高い寺において、警護や寺務にあたっていた武士のことだという。立玄は少年の頃、医師になることを志し、全国を医術修行のために行脚した。当時最先端の蘭学をも学び、優秀な医師となったようである。すでに15歳にして、甲州・大月の医師のもとに客分として滞在した時、コレラやチフスを、西洋医術を駆使して治療したそうだ。その縁によるものだったのだろう、ほど近い小沼村(現 西桂町小沼)に定着して、「愛神堂医院」を開いた。その名前から、キリスト教を信仰した人であるように思われる。
このお医者さんは、治療費の払えない患者を無料で診察するばかりか、援助まで与えるような人であり、そのため自らはいつも貧乏をしていたそうだ。村人たちの多くは、この医師を慈父のごとく仰いでいたという。(心ない成り金たちの中には、立玄医師を侮辱するような者もいたらしい)
なるほど、春充の志は、このような父親の生きざまを見て育ったために、養われたものであったのに違いない。
このようなエピソードも伝わっている。あるとき父親が仏壇に向かって、春充の病気平癒および長寿を一心に祈願している声を、春充は隣室にあって聞いたという。このような親の真情も、春充を奮い立たせる一因になったようである。

春充のお父さんのお父さん、すなわちお爺さんは、長州の寺侍であったと先に述べたが、この人はあらゆる武芸を極めた達人であり、禅にも参じてその玄旨を得ていたほどの人であったらしい。後の春充の人生にオーバーラップしてくるような不思議な因縁が、すでに用意されていたかのようである。

春充とともに生き残った唯一の兄弟に、兄・河合信水がいる。この人は生涯にわたって、春充を助け、またよき理解者であった。兄弟や母親が相次いでなくなるという不幸に見舞われた時、大声で泣く幼い春充を前に、信水は次のような疑問を抱いた。
「なぜこのようなことが起こるのか。善をなして不幸続出の者もいれば、悪をなして世に栄華をほこる者もいる。天の道は是なのか非なのか?」
この悲痛な苦悩は、信水をして、キリスト者の道を歩ませることになる。春充はこのような兄の影響をも強く受けて育ったのである。

不幸な春充にも、誠実な人たちの慈愛が降り注がれていたのだ。慈愛を受けた人は、やがてその慈愛を他に返そうとする。そうせざるを得ない。真の慈愛の人に出会うことこそが、人生における最大の恩恵なのではないだろうか。

私のことで恐縮だが、私のような者でも、これまでの人生において、幾人もの素晴らしい師たちに不思議に出会うことができてきた。彼らの慈悲は、たしかに私の上にも注がれてきた。しかも何の理由もなしにである。
私が犯罪者やテロリストにもなることなく、曲がりなりにも生きて来られたのは、全くもって彼らのおかげである。私の上に注がれた慈悲心は、私の中に種子となって宿った。それはやがて時期が来たら、花開いてゆくことになるだろう。そのように感じている。
一人の慈愛の人に出会うことは、この世の福音である。しかし出会うためには、そのための感受性を持ち合わせていなければならない。時節因縁の熟するところ。それはもしかすると・・・多くの場合、絶望の中、危機の中で開かれるのかも知れない。

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