十佛名(じゅうぶつみょう)という短い経文がある。 かつて、三島の修行道場である龍澤寺(臨済宗)に置いてもらっていた時、わけも分からずに誦していたものの一つであった。 私は、お経なんていうものには、あまり重きを置いていない。 元々、禅宗では、声を揃えてお経を唱えるというような習慣はなかったのだということを聞いたことがある。それが鎌倉時代になって、元寇がやって来た時、心を一つにして国家安泰を祈念するために、大勢で唱えることが始まったというのである(そのことについて確証はないが)
禅では、法身(ほっしん)ということが言われる 法身・ダルマカーヤは、高次の身体のことだが、禅で使われる時には、一種の三昧状態を指しているように思われる 生の実感、自他の区別のない感覚、ただひたすらなる状態 このとき内側の身体自体が、甘く感じられる このような味を、禅味とも言う
瞑想者は、内面に深く沈潜した時、沈黙の声なき声を聴き、そこからメッセージを汲み出して、それを言葉にしてみよう 借り物の知識ではない、自分の言葉で それは洞察の言葉となって、誰かのためになるかも知れない ならないとしても、少なくとも自分の学びになる 言葉にしてみて気付くこともある
精神性が高いというのは、ある意味、自らの精神性の低さを痛感していることである 精神性が低い者に限って、自分が高いものと勘違いしている 優生学などを唱える愚か者が考える優生は、愚か者の価値基準に沿った優生だ アホな優生学を唱えるような傲慢な者が生まれて来ない、それが本当の優生学だ
卑しい人格の者が、社会の上にのし上がることができないような社会を構築するべきだ 多くの善良で常識あるピープルが生贄とならないよう あらゆる分野で、まず人間性(精神性)が評価されなければならない どんなに頭脳が優れていても、金儲けに長けていても、精神性(霊性)の低い者は後回しだ
上に立つほどの者は、優れた人格者であるはずだ、という古い性善説は、今日崩れ去ってしまった 政府や企業やマスコミや医療産業は、最も酷い犯罪集団と化してきている 残念だが、我々は子供に、彼ら(いわゆる権威)の言うことを信じないように、常に警戒の目で見るようにと教えなければならない
この国には、まだまだ志と勇気があり、人間性も優れたサムライが、少なからずいる ところが今、各分野のトップに立つような人間は、絶望的に腐敗している場合が多々ある こんな者達でも、初めは志の一つもあったのであろうか それでも権力を手にすると、隠れていた本性が露わになるのだろう
「もしトラ」ということが言われるが、私は「もしハラ」を提案しておきたい。 原口一博議員が、もしこの国の首相になったら・・・
mindfullness は、失礼ながら、泣く子供をあやすようなもの そこには「希望」がある nomindness は、大人の瞑想家のものだ もはや希望はなく、真実だけが問われることになる
ある御老人とお話する機会があった。親戚にコロナで亡くなった方がおられるそうなのだが、ご自分はワクチンを打ったので大丈夫だったという。mRNA被害のことなど少しも念頭にはないようだった。反論しても無駄だろう。依然としてこれが大多数、一般の人々の認識だ。メディアの偽報道は重罪だ。
それで、瞑想としてはmindlessness、あるいはno-mindness と言いたくなる しかし、おそらくこのような否定形では、一般受けしない no-mindでは、夢も希望もない mindが何か、一杯になり充実したような気になる方が喜ばれる まあ、fullでも良しとしよう
西洋では瞑想のことをマインドフルネスと言ったりする しかし禅では「無心」と言い、OSHOは「No Mind」と表現した それで、mindfulness などと言うと、私は若干の違和感を覚える mind が問題になっているのに、それが full になってしまってどうするのだ 、と
子供の頃、従弟の兄弟の兄が50円貰ったが、弟の方は100円貰ったのを見た ところが当時、50円玉の方がサイズが大きくて、小さな100円を貰った弟は、ずるいと言って泣きじゃくったのだった 価値がわからないとこのようなことになる 心と、心の止滅とでは、比較にならないほどの違いだ(笑)
心の止滅というのは、即、大いなる心の発現である、と言ってよいのではないか しかし真理というのはその性質上「~である」とは言えない かろうじて言えるのは「~ではない」ということだけだ その否定の果てに真実が浮き彫りになる 小さな心が止滅する、言い得るのはそこまでだ 後は、言説不可だ
ヨーガは心の作用の止滅である、と定義される 一方で、日本の栄西禅師は「大なるかな心や」と言っている 言葉と言うのは、そんなものだ 日本人は「こころ」という言葉を大切にしてきた それで、心の止滅などというと、寒々しく感じられるかもしれない しかしインド精神の全否定的超越性は凄まじい
योगश्चित्तवृत्तिनिरोध YOGAS CHITTA VRITTI NIRODHAH (ヨーガス・チッタ・ヴリッティ・ニローダー) Yoga is the cessation of mind. ヨーガとは、心の作用の止滅である (ヨーガスートラ冒頭部分) パタンジャリ(生没年不詳)が著したヨーガの古典「ヨーガスートラ」は、特異な書である。 精神世界の全体が、数学的・論理的に、そして最も簡潔に書かれている。そこにはポエジーも情緒もない。方程式の如くただ冷徹に