Dremer who dreams the Impossible

徳雲の閑古錐
幾たびか妙峯頂を下る
他の癡聖人を傭ひて
雪を担いて共に井戸を填む
 雪竇重顕 ( せっちょう じゅうけん ) 「祖英集」

徳雲比丘はなんとも擦り切れた錐(きり)のようだ
(役に立たない、転じて、円熟しているの意)
幾たび瞑想の山中から下って来たことだろう
頭のおかしな聖人とともに
雪を担いではせっせと井戸を埋めようとしている
(なんとバカなことを!しかしここでは暗に絶賛している)

   ※

白隠禅師は、この偈を、禅の究極のものとした
禅は、山中に安楽坐しているだけではダメだ
大いなる願いをもって
無駄だとわかっていても
世間に出て行って、頭のおかしな聖人(我々のことだ)とともに、バカなことを実行する
それで笑われようが、DS政府から逮捕されようが構わない
それこそ望むところだ
いっそのこと共に笑おう
すべてはブッダ(宇宙意識)の手の内にあるのだから

OSHOは言っていたものだ、
ブッダとは、不可能を夢見る夢想者なのだ、と

誰がわかる?
不可能は可能になるかも知れないではないか
そのように願ったなら、もうそれは、半ば実現しているのだ



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