肥田春充ノート 1

肥田春充(ひだはるみち)1883(明治16年)―1956(昭和31)
肥田式強健術の創始者。神秘思想家。

富士山北麓の一寒村(現 山梨県西桂町小沼)に医者の子として生まれる。7人兄弟の5男として生まれたが生来病弱であり、何度も生死の淵をさまよった。また6歳のとき、母親と兄弟のうちの5人までもが相次いで他界してしまうという不幸に遭う。
少年のころの春充は、痩せ切って棒のような惨めな身体だったことから、「茅棒(かやぼう)」とあだ名されていじめられていた。性格的にも陰鬱になり、引きこもりがちであった。その無力感と苦悩の中にあって、18歳のとき、一念発起、身心ともに強くなりたいという渇望を強く抱くに至った。
まず身体の構造を学ぼうと、父の蔵書の中にあった解剖学・生理学などの本を読み始め、自分自身で身心の鍛錬法を模索しそれを実行に移す。
その結果、20歳のころには、人一倍健康な身体となる。
大学卒業後、軍隊生活を経る間も、身心鍛錬の研究を怠らなかった。
35歳、伊豆の八幡野(現 伊東市)の肥田家に養子に入る。この地で人知れず、独自の探求を続ける。
41歳、強健術のエクササイズ中、腰腹同量の力において突如、正中心を感得、宇宙の実相を悟る。
それ以降も探求を続け、また人々に肥田式強健術の指導を行う一方、国事にも奔走した。興味深い様々なエピソードが伝えられている。世界人類の平和を希求し、晩年は神秘的宗教的著述をなした。

伊豆・八幡野の春充の道場があった場所を、私はかつて瞑想仲間たちとともに一度訪れたことがある。彼らは春充のことを伊豆の超人と呼んでいた。庭に春充の坐禅石というのがあり、ここで坐禅もおこなっていたそうだ。私はそこに坐ってみたが、私の体形にも合っていて、何かがミシリと決まったような気がした(気がしただけである)。春充は確かに坐禅も行っていたようだ。明治から昭和にかけて活躍した禅僧・飯田欓隠(とういん)老師は春充と親交があったようで、その坐禅をいたく賛嘆していたということである。

肥田春充の丹田の捉え方は、非常に優れているのではないかと私は思う。まず上体を虚の状態に持って来る。その上体を支えているのが丹田なのだが、その丹田は点としてではなく、ゆるやかな球体として捉えられている。それが正しい球面体になったときに、それは中心(正中心)の一点を指向することになる。そこを掴むことができると、強靭な生命力が迸り出るというのだ。それは私には、エネルギーを増した台風の中心にポッカリと目ができことのようにも思われる。そこは無の空間なのだろう。またあるいは、野球でバットがボールの芯を捉えると強烈な衝撃力が生じるかのような・・。球体が、中心の一点に収束して、ゼロの、無の空間に辿り着く、するとそれは内的な無限空間に向かって反転・膨張するのではないだろうか。私もおかしなことを言っている。
丹田を捉えるという捉え方だが、それは丹田を外から対象として見るのではない。丹田の内側から、丹田そのものとしてそれ自身を見るのでなければならないはずだ。それを瞑想家は、見る人なしに見る、という言い方をする。肥田春充は明らかにこのことを言っているようだ。悟りにもいろいろな入り方があるのだろうが、この人は身体を具体的に操る中で、身体感覚を内的に捉えることによって、悟りに達した稀な人だったのではないか、というのが私の見解である。




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