Far away

「骨を埋めるのを手伝ってくれない?」
聞き間違いでなければ、彼女は確かにそう言った。
青天の霹靂という慣用句を初めて適切に使えるシチュエーションに出会ったかもしれない。霹靂って漢字で書ける十代、ほとんど居ないだろうなっていうどうでもいいような思い付き。それは彼女の話の内容の衝撃にあっという間に全てかき消された。
「え?」刹那の沈黙の後、僕は訊き返すのがやっとで、え、という一文字しか発せなかった。骨?彼女は骨って言ったのか。目の前の女子生徒————水野真奈美は身じろぎ一つすることなく、ただ真っすぐな目をこちらに向けていた。僕、佐々木博章も全く動けなくて、ただ黙って向き合っているだけの状態が数秒続いた。打ち明けられた話の内容は衝撃的であったが、もっと衝撃的なのは僕と彼女が会話するのはこれが初めてという事なのであった。
 「遺体を————骨を埋めたいの。だから、それを手伝ってほしい。佐々木くん、突然で申し訳ないのだけど。」彼女はそう続けた。僕は混乱しながら、目の前の制服を着た少女に返事をした。放課後の学校からはもう生徒は殆ど下校し終えていて、西側の山の陰に沈む夕陽がその日最後の輝きと言わんばかりの眩しさを誇っていた。夏の終わりに近づいた夕暮れに遠くから静かに虫の鳴く声が聞こえてきて、校舎からは吹奏楽部の生徒が奏でる音楽が微かに耳を撫でていた。
 「骨ってどういうこと? それってまさか、人間の? というか、どうしたの、急に。何で僕なの?」僕は彼女に訊きたいことの全てを一気にぶつけた。一息にこの世の疑問詞を全て詰め込んだようにまくし立てた僕に、水野さんは表情をほとんど変えないまま至極当然という風に頷きながら話し始めた。
「確かにそう思うのが自然よね。ごめんね。一つずつ答えたほうがいいだろうから、説明するね」
彼女は息を深く吸って、意を決したようにゆっくりと話し始めた。彼女は淡々と、しかし言葉の端々に悲しみが感じられるような話し方をしていた。
水野さんの家族が亡くなった。お婆ちゃん。女性で、九十歳の大往生らしい。家族は皆丁寧に葬儀を挙げ、火葬に付すべきだと言っていたが、自分が産まれてすぐの時からずっと自分を見守ってくれた「彼女」を火葬し骨を安置するというのを目の前で見続けるというのはどうしても思い出があふれかえってしまい無理なのだと水野さんは考えたそうだ。聞くところによると、水野さんはかなりのお婆ちゃん子らしく、特に「彼女」とも思い入れが深いため亡くなった時は相当ショックを受けたらしい。しかしさすがに遺体をそのままにはしておけないため、水野さんは家族に説得され、多くの人の協力の元、基準では考えられないほど盛大に葬儀を挙げ、火葬場で泣く泣く「彼女」を荼毘に付した。それでも水野さんは亡くなった「彼女」を諦めきれず、納骨をせんという時に家族の目を盗み、骨壺から燃え尽きた骨の破片を二つ、こっそりと着ていたズボンのポケットにしまい込んで家に帰ってきたのである。
そういった理由の元(本当は多分もっと紆余曲折あるのだが、僕が水野さんから聞いたのはかいつまんでこれくらいだ)、水野さんはそんなお婆ちゃんを手元から永遠に決別するために今手元にある骨片を埋めに行く決意をしたというわけだ。
で、なぜ話したことも無い僕を唐突に誘ったのかと言うと、それには残念ながら(?)ほとんど特別な理由はないらしい。強いて言うのならばこんなことは仲が良すぎる友達には到底話せないこと、また彼女が骨を埋めようとしている場所は線路沿いを歩いて行く、山に近い場所のため出来る事なら男性が付いてきてくれるとありがたい、ということだった。僕はそんな水野さんの言い分になぜか何となく納得してしまって、特に断る理由もなかったので彼女の話を最後まで聞いた。突如切り出された話のイントロやその様子から頭のおかしい人なのかと初めは思っていたが、詳しく話を聞いてみた感じ、恐らくではあるが彼女はそこまで悪人なのではない。むしろ、どうしても離れたくなかったお婆ちゃんを想うあまり突発的な行動に出てしまったが、しばらくして我に返り、やっと彼女と決別する決心がついた、極めて家族思いの良い子なんだなという感触を僕は持った。「骨を埋めに行く」というあまりに現実味のない出来事を提案されていたことに狼狽していた僕の心は、彼女とコミュニケーションを取っていくうちに次第に次第に冷静さを取り戻して、頭の中でもう一度会話の内容を整理したのち、彼女に言った。
「じゃあ、僕はついていくだけでいいってこと?」水野さんは少し考えて答えた。
「そうね、出来れば、来てくれるだけでありがたいな」
僕は少しだけ俯いた。白い上履きが視界に入る。少し今までの状況や話の流れをもう一度逡巡したのち、僕は顔を上げて言った。
「分かった、骨を埋めに行くの、ついていくよ」
彼女は少し、しかしはっきりと表情を明るくして「ありがとう。佐々木君なら来てくれるってちょっと思ってたよ」と言った。「何でよ」と僕が軽く彼女に笑いながら言うと、彼女もこちらを見たまま、少しだけにこりと笑った。さっきまでの緊張した表情はほぐれ、僕に同行を依頼するというとりあえずの目標を達成した安堵感が彼女の顔に浮かんでいた。何度も言うようであるが、僕と水野さんが話すのはこれが初めてだった。
彼女との衝撃の出会いを終えた僕は、とりあえず自転車に乗って家路につく途中、もう一度今日の話の内容を頭の中で反芻した。彼女のお婆ちゃんの骨を埋めに行く。学校を越えて、国道を越えて、山を一つ迂回して、線路沿いを歩き、またもう一つそびえる山のふもと。彼女のおじいちゃんが持っている山。水野さんはそこにこっそりと持ってきたお婆ちゃんのこの世に残した最後の白く濁った痕跡————骨を埋めようとしている。それに何故か、今考えても何故なのかは分からないが、この僕が付いていくことになった。にわかには信じがたいイベントであるが、どうやらこれは現実だ。このような得意で酔狂な経験を繰り返して、人は大人になっていくのだろうか? ほぼほぼ初対面の同級生と遠くまで突然骨を埋めに行くという出来事が当たり前に起きるような世界であって欲しいとは思わないのであるが。
言わずもがなの不朽の名作。スティーヴン・キングの「スタンド・バイ・ミー」。千九百五十九年、ゴーディ・ラチャンスを始めとしたアメリカの田舎町に住む四人の少年が、行方不明となっていた少年の遺体が線路沿いにあるという噂を聞きつけ、「死体を見つけると英雄になれる」という動機から死体探しの旅に出る。冒険のような旅路を乗り越え、エースを始めとした不良グループとも戦いながら、少年たちは目的の場所へたどり着く……という場面があるのだが、さしずめ僕たちがやっていることはその「逆」だ。僕たちは、遺体を(というか、骨を)———歩いて、歩いて、電車に乗って、山をぐるりと回って、どこか遠くへ、「置きに行く」。あのオレゴンの田舎町の少年たちのように、それを見つけに行くのではない。僕たちはその骨が今後これから誰にも見つからないように、誰の目にも触れないように、この世界から永遠の別れを喫するように動くのである。それが彼女にとっての「決別」であるように、これから僕たちが行うのは見つけることではなく、見つけなくする営みなのであると僕は考えた。自転車の車輪がカラカラと勢いよく空回りして、なだらかになっている家の前の坂に差し掛かった。ペダルを踏む足にぐっと力が入って、家までの数十メートルを漕ぐ。明日の放課後というあまりに急な約束を果たすため、僕は何としても明後日提出の英語のワークブックを終わらせておかなくてはならないのだった。
 
放課後僕たちは制服のままで、自転車を漕いで高校の裏手にある山をぐるりと迂回して目的地まで行くことにした。小高い丘の上にある校門を僕の紺色のママチャリと彼女の白いキャノンデールのクロスバイクが並んで抜け、野球部が大声を張り上げているグラウンドを西側に見ながら走り、かなりきつめの下り坂になっている住宅街と並木道をブレーキを握りしめながら猛スピードで駆け降りた。晩夏。もう秋が近かった。時刻が夜の六時を回っても外はまだかなり明るく、真夏に行き遅れた蝉たちが必死に来る日も来る日も求愛行動に勤しみ、残響を彩っていた。速く回っていく車輪に気を取られながら空を見上げてみれば、勢いよく西に沈んでいく太陽とそれを追いかけるように細かく散っていく雲の姿をはっきりと捉えることが出来た。太陽はまさにその日の最後の輝きと言わんばかりにますます存在感を増して西日を強く煌めかせ、その光は水面や大地に降り注いで世界をまるで蜂蜜で満たしたかのような鮮やかなオレンジ色に染め上げていた。僕たちは何もしゃべらずに、ただあの千切れた雲たちと共に沈んでいく太陽を追いかけていくように必死に西に西に車輪を滑らせていた。踏切を越えて、橋を越えて、坂を越えて、オレンジに満たされた世界を抜けて。向かい風に乗った真夏の残り香も僕の鼻腔を刺激して、肌を撫でて、疾走する僕たちの身体に覆いかぶさるように纏わっていた。それらも全て一緒くたにして、僕たち二人は必死でものすごいスピードで沈んでいく太陽に着いていっていた。両親には放課後補習で遅くなるとだけ言っておいた。山をぐるっと回りこんで、自転車を一時間ほど走らせた頃に、数メートル前を走っていた彼女がこちらを振り向いて言った。「このへん」
日はすっかり落ちて、そこまで高くない山のふもとももうかなり暗くなっていた。「おばあちゃんち」という言葉がぴったりと似合うような日本家屋も電気が点いている家と点いていない家が交互に並び立っていた。田んぼにはどこにも姿は見えないけれども蛙がうるさいぐらいに鳴いていて、水野さんがこちらに話しかけてきた声を全てかき消してしまうかのようだった。
「ここの山、おじいちゃんが持ってるの」
「知ってるよ」
「何で」
「聞いたから」
「そういえば、そうか」
水野さんは白いスタンスミスのスニーカーの踵をトントンと叩き、ついた泥を落とし始めてから歩き出した。学校に居た時はローファーだったのに、いつ履き替えたのだろう。僕もさすがに秋口の夜とはいえ、暑さと、何か特殊な一種の緊張にあてられていた。じんわりとカッターシャツの向こうの肌に汗が滲んだ。シャツの前立てを右手で握り、パタパタと風を送り込む。ちょっと前まで鳴いていた蝉や蛙もいつの間にか少しずつ声を潜めて、そろそろ本格的な夜になろうとしていた。僕は水野さんの後を追うようにして小走りで彼女を追いかけた。落ちていた枝を踏みぬいて、小気味よく乾いた音がいくつも鳴った。
二分ほど歩いて、まだ日が静まりきらぬうちに山のふもとで水野さんは立ち止まった。彼女は肩にかけていたエナメルバッグから手のひらほどの大きさの巾着を取り出し、「そこで見てるだけでいいから」と後ろを歩いていた僕の方を見ずにそう言った。僕は自転車の鍵を抜いてきたか今になって不安になって、少し後ずさりをして後ろを振り向こうとした。烏がどこかで数羽一斉に鳴いて、同時に飛び立った。結局僕は少しだけ汗が滲んだ彼女のセーラー服の背中をじっと見つめて、目線を逸らさないまま彼女の一挙手一投足に注目した。水野さんは巾着から茜色の布を取り出して、地面に跪いた。僕も目を凝らした。こめかみの後ろを冷たい汗が伝った。彼女は布を解いて、エナメルバッグを地面にどさりと置いて、左手でバッグから小さなシャベルを取り出して地面を掘り始めた。僕は彼女に「手伝おうか」と言ったが、彼女はこちらを一瞥もせず「大丈夫」と答えただけだった。
五分ほどして、水野さんはスニーカーの踵でシャベルについた土を擦り落としてそれをバッグの中に大切そうにしまった。ほどけた布から白い塊のようなものが見えて、あ、骨だ、と僕は直感的に理解した。ぐぐっと喉が渇いて、急に肌寒さのようなものを感じた。本物だ。この宵の口に月明かりの下で見るそれは、火葬場で見るようなものとはまた違った雰囲気を携えていた。神秘的とも狂気的ともとれるそれは、少し離れている僕にもいやおうなしに存在感を主張していた。
水野さんはその白い塊を手に取り、優しくなでるようにしながら地面に埋め始めた。さっきまで僕の近くにいたように感じられた彼女は、いつの間にかこの世界すら隔てたほどに遠く感じて、この夜を媒介してどこか恐ろしい場所へ誘われていくかのようであった。僕はそれに一抹の不安と恐怖を感じて、「水野さん」と声をかけようとした。しかし僕の声はかすれて彼女まで届くことは無く、彼女はただ俯いてそれを地面に埋めていた。
「お婆ちゃん、ゆっくり眠ってね」彼女のその言葉で、僕ははっと我に返った。水野さんは両手を合わせて目を瞑り、俯き、敬虔な信徒が神への祈りを捧げるように埋められた骨の前に蹲っていた。僕はそれを、言葉を発することなくただじっと見ていて、心臓の柔らかな部分を握られているようで、全身が緊張したまま動けなくなって、水野さんと残された遺骸の最後の対話をずっと見守っていた。彼女にとってこのお婆ちゃんという存在は、本当にかけがえのない、大切な家族であり、彼女自身を構成する物の中に存在するほど切っても切り離せないものであったのだと感じられた。今、それを彼女は必死に断ち切っている。死ぬよりもつらい思いをしながら、これからを生きるために努力している。決別は綺麗ごとじゃない。いつかは誰にでも決別は、何らかの形でやって来る。果たしてその時僕は、彼女と同じように強い気持ちでさよならを言えるだろうか?
永遠とも感じられるほどの時間の末、水野さんは何かをちぎるように立ち上がった。「行こっか」
「もういいの」僕はそう聞いた。「もう大丈夫」彼女はそうとだけ言った。涙の跡が頬に浮かんでいた。「いいお婆ちゃんだったんだね」僕は彼女に並んでそう言った。「うん」
「ゆっくり眠れるといいね」
「うん、一緒に暮らしたのは十八年くらいか。十年前はあんなに小さかったのになあ」
「あ、しばらく別居してたってこと?」
「いやいや、私が小さい時に初めてうちに来たんだよ。それまでは捨てられてたの」
「ん?お婆ちゃんの話だよね?」
「え?そうだよ」
「え?あ、え?ごめん、ちょっと、よく分からない」
「ああ、ごめんごめん。お婆ちゃんって、さっき骨埋めた子のことで」
「え?あ、うん。それは、分かる、え?」
「あ、ごめんごめん。さっきの骨は、飼い猫のね。人間で言えば、九十歳の大往生。お婆ちゃん」

『Far away』


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