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感情の行方

「ねぇねぇ、誰か好きな男の子いないの?」
小学4年生の時、クラスの女子に聞かれた。
「みんな普通に好きだよ」
いつもの顔で、いつもの声で、そう答えたのを、今でも覚えている。





1.  信じていた話

小学生の時から、恋愛話に興味がなかった。
むしろ男子なんて、粗暴で、うるさくて、何を考えてるか分からなくて、うっすらと嫌悪すら持っていたかもしれない。
少女漫画のキラキラした女の子の顔や、クラスメイトのひそひそ話、あまり聞かないJPOPの歌詞、私より少しませた幼馴染の報告を、冷めた目でいつも見ていた。
小学生の恋愛なんて、一時のもので何になる訳でもないと、本気でそう思っていた。
早々に地元に嫌気がさして、中学受験をする予定だったのもあるかもしれない(だって、遠距離恋愛なんて絶対に続かないでしょう?)。


受験して行くなら絶対に女子校がいいと、初めから決めていた。
「新しい環境に行ってみたい」というのは本心。「女子校は楽しそうだから」というのも本心。
でも、「恋愛話が面倒だから」というのも、本心だったかもしれない。
自分の心に疎くて、気づいていなかったのかもしれない、私の本心。

卒業式の日、私の私立中学への進学が決定していた日、幼馴染からなんでもない様に言われた。
「○○君と▽▽君が、君のこと好きって、言ってたよ」
身長が近くて、いつも背の順で並んでいた時によく話していた男子たちだった。

今言ってどうするの。
本気でそうとしか思わなかった。


恋愛に興味がなかった。
それでも、そんな私でも、いつかは大好きになった人と一緒になって、結婚して、子供を産んで、暖かい家庭を持つ未来を夢見ることを、当たり前に享受していた。

受け取る資格すらないことにはまだ、気付いていない。






2.   彼女の話

めでたく希望の女子校に入学して、2年目の春。
「ねぇ、初めてやんね」
新学期、後ろの女の子に肩を叩かれた。
「そうだよ、今年からコースが変わったの」
「そっか、よろしくな!」
これがファーストコンタクト。

彼女は所謂「女子校の王子様」だった。
私より2センチだけ背が高くて、声が低くて、優しくて、ボディタッチが多くて、クラス会長をいつもしていて。
そして私のことが大好きだった。

私たちは文字通りいつも一緒だった。
遅刻癖のあった彼女が来ない朝はやきもきし、お昼にはお弁当を持って隣のクラスに押しかけ、休み時間ごとに会いに行き、2人手を繋いで帰った。
クラスにカップルは何組もいたが(女子校特有の友人間の言い回し)、「夫婦」と揶揄されたのは私たちだけだった。

涙腺が鋼の私が中高で人前で涙を流したのはたった3回だけだったが、そのうち2つは彼女の事だった(残りひとつは好きな先生が辞めると聞いた時)。
人生最後の文化祭の日、夕陽でオレンジに染まる非常階段で2人きりで泣いた日を、私は決して忘れないだろう。



家庭に難のある彼女が唯一素をさらけ出せるのは私の前だけだったし、プライドが高く人を頼れない私が唯一甘えられるのは彼女にだけだった。

「友愛」と呼ぶにはあまりにも大きな感情に、私は未だ名前をつけることが出来ていない。







3.   定義の話

彼女に対する感情は何なのだろう。
迷った私は、先人に知恵を借りることにした。つまりありとあらゆる恋愛を取り扱った物語を読み漁ったのだ。

同性を好きになった主人公はどうして友愛と違うと感じたのか。彼を好きだと思ったポイントは何処か。どんな気持ちになった時に恋をしていると思ったのか。

主人公はどうしてこの相手への感情を愛と定義したのか。



結局、明確な「恋愛の定義」を見つけることは出来なかった。
私が物語から拾い上げた恋愛の定義を挙げると、おおよそこんな感じだ。

・常に相手のことを考えるようになったら
・相手と居ることで動悸等が生じた場合
・「相手のことが好きなのだろうか?」と考え始めた時
・相手のためには苦労を惜しまない場合
・性的接触が許容できる時

結果的に、共通する明確な「恋愛の定義」はなかった。
ただ私が一つ、理解出来たことは「相手のことが恋愛的に好きだと感じたら好きである」ということだけだった。

よくよく考えて見れば当たり前のことだ。私は友人に対して「どのくらい好きなら友達と言えるのか?」なんて考えたりしないし、今までも、そしてこれからも、友達は「私が友達と思ったら友達」なのだから。


彼女のことは大好きだ。今後一切、彼女以上に好きな人と出会える気がしないほどには。
買い物中彼女の好きそうなものがあれば目を止め購入し、相性占いがあれば真っ先に彼女との仲を占う。
私が実家を出た時には一緒にシェアハウスしようねって、そしてこんな子供じみた約束が今でも生きてるような、そんな仲だ。


でも、私にはこれが「過度に重い友愛」なのか「同性へ向ける恋愛」なのかが分からない。
分からないと言うより、これが恋愛感情であると言われても、しっくり来なかった。







4.   あきらめる話

高校当時から、私の考えは二分されていた。
「彼女が好きな私」と「誰のことも好きにならない私」。
アセクシャル、という言葉は当時から知っていたし、自身がレズビアンであるかもしれないと感じてショックを受けなかったのは幸いだった。


恋愛の定義を常人は考えない、と気づいた私は、次に常人ではない私が一体何者なのか、知る必要があった。

セクシャルについて、近年ますます分類が細分化されていくことに苦言を呈する人々も多い。しかし、少なくとも私はこのことに賛成だった。
自分が何者であるか、「自分は自分である」なんて、悩んでいる人にはただの言葉遊びにしか聞こえない。
自分が何者であるか、周りの決めた細かく分類された箱の中に自分が入れて初めて、自分のことを理解し、安心することが出来た。
分類が存在するということは、つまりはそれだけ、同じ人が存在しているということの証明になると思った。


多くのネット情報を漁り、恋愛についてのエッセイを読み、そうしてたどり着いた私の結論は、「クォイロマンティック」。

クォイロマンティック
意味:恋愛感情とは、友情とどう違うのかがわからないセクシュアリティのこと。


これだ!!!これぞ私の分類、私の居場所だ。

長年の悩みが晴れた喜びと、私には恋愛をする資格が存在していなかったという悲しみを、同時に感じた。


「クォイロマンティック」という明確で、分かりやすく、社会から定義された名札を手に入れた私の、そこからの仕事は早かった。

まずは長年の友人達にその事を話した。もちろん彼女にも。
続いて家族にカミングアウトをした。
これにはふたつの理由があった。

1つ目、今後家族から結婚の話を振られる未来の私を守るため。
2つ目、将来自分の娘が好きな人と結婚し幸せな家庭を築く私という当たり前の夢を早く諦めてもらうため。

父親はウエディングドレスを着た私とバージンロードを歩くことを夢見ていただろうし、母親は私の産んだ私にそっくりな孫を抱きたかっただろう。
この誰もが享受できる当たり前の夢を諦めるのに、多くの時間が必要なことは、私が1番知っていた。







5.   これからの話

私が自分がクォイロマンティックであると、自分が恋愛が本質的に出来ないと知ったのは、私が大学1回生の時だった。
それから数年経った今でも、私は未だに「恋愛」という華々しく甘い響きの事象を諦め切れていない。

もちろんアセクシャルでも恋人がいる人は大勢いる。本当のことを隠して付き合っている人、カミングアウトした上で家族として愛している人、同じ境遇の人と寄り添って生きている人。
しかし私には、どうしても出来なかった。
根本的に男性が苦手である点も理由の一つだが、一方通行の恋愛感情をずっと受け止められるほど、私は器が大きくなかった。図々しく生きられなかった。

恋愛をしてみたい気持ちと、愛情を受け止めきれない恐怖。
相反する気持ちを抱え、私はこれからも生きていくんだろう。



仲の良い友人は沢山いるし、親との関係も良好で、趣味も多く、職に困らない学歴を身につけつつある私は、未来に対する不安も特になく、まあ実際のところ恋愛をした事はないし、仕方ないよねと、そう折り合いをつけている。

それでも、今でも私は、世間一般で「最上級の好意」と位置づけられている感情を向け合う相手が出来ることがないことに、絶望し続けている。物語で多く取り上げられる、人生を変える程の感情を持つことが出来ないことに、落ち込むことを止められないでいる。
愛し合った2人の物語を読む度、自分にはそのような唯一無二の存在は今後一切存在しないのだと痛感し、布団に潜り枕を濡らしている。


そんな夜はこの恋愛至上主義の世界に生きている以上、今後も必ずあることなのだ。

その事が少しだけ、悲しい。

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