見出し画像

「小説 名娼明月」 第2話:恋の擒児(とりこ)

 今から約三百五十余年前、将軍足利家の勢威衰えて、諸国の大名を制するの力がない。御代は正親町天皇(おおぎまちてんのう)の永禄天正のころである。尾張の織田信長、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、中国の毛利元就、四国の長宗我部、肥前の龍造寺隆信、豊後の大友宗麟、その他幾十百となき大小の豪傑が全国各地に崛起(くっき)し、互いに兵戟(へいげき)を交えて領国の奪い合いをしたから、その時分のわが日本は、まるで鼎(かなえ)の沸くような騒ぎで、戦乱また戦乱、世は矢叫びの音に鳴り渡った。
 このころ、備中国窪屋郡(びっちゅうのくにくぼやのこおり)の南方、西河内の海岸に、窪屋与次郎一秋(くぼやよじろうかずあき)という、土地に有名な郷士があった。当時四十一歳の主人一秋は、武に長じていたけれど、密かに期するところあって、世に出でず、花鳥風月を友として歌や詩を楽しみ、慎み深く、仏陀に仕えておった。
 その妻が三十六歳の阿津満(あづま)、優しい心根の婦徳高き女であった。
 そうして、この二人の中に、お秋という、当年十六歳の一人娘がある。漆黒の髪、雪を欺(あざむ)く肌、人を魅する眸(まなざし)は、早くから里人の噂に上って、美人の名が隠れなかったのである。
 主人一秋と親族より親しい間柄の友人に、伏岡左右衛門(ふせおかざえもん)というのがある。左右衛門の忰(せがれ)は伏岡金吾、当年二十一歳の若者で、一秋とはほとんど、叔父甥にも等しい間柄である。
 父左右衛門は、忰(せがれ)金吾のようやく成人したると見て、嫁を捜してやることとなり、あれかこれかと物色した末、お秋はかねて親族のような間柄ではあり、その順良(すなお)な気心も、どことなく気高い心栄えも判っており、かつはまた麗質他に得難いとあって、伏岡家では、お秋を金吾の嫁に欲しいと申込んだ。一秋は、金吾の武術文事に修養浅からず、千万の敵をも恐れぬ毅然たる偉丈夫であることを知っている。わが娘のために願ってもなき良縁である、というので、すぐに快き承諾を与え、結納を取交すばかりになっていたのである。
 しかるに、一秋のおる西河内の東方約二里、宇都郡(うづのこおり)の帯江(おびえ)というところに、矢倉監物(やぐらけんもつ)という二十三四の武士がある。もとは今川義元の家臣であったが、永禄三年の桶狭間の戦(いくさ)で織田信長に敗らるるや、監物は父とともに逭れ(のがれ)来たって、今の所に隠れ住むこととなった。その後まもなく父は死んだから、今は家来、柳島才之進のほかに下僕二人を召し使って、為すこともなく日を送りながら、自分がこれから仕ゆべき武将を、それとなく捜していた。
 そのうちの、ある秋、監物は、神辺川(こうべがわ)の上流、三輪山(みわやま)に紅葉狩りをしたことがある。そのとき、ちょうど、お秋も三輪山に来合わせていた。数ある美人の中で、お秋の麗質がひときわ目立ったのは無理もないことである。そうして監物は、そのとき、ちらと、お秋の艶やかな姿を見て、たちまち参ってしまった。
 さあ、こうなれば、事である。寝ても覚めても心に浮かぶは麗しきお秋の姿である。いったい、どこの何者と、監物ほどの男が、ついに恋の擒児(とりこ)となって、胸は破れんばかりとなった。監物は、とうとう、このことを自分の胸に秘めて徒(いたずら)に悩むに堪えなかった。一日(いちじつ)思い切って、家来才之進に打明けて、その女の居所を捜してくれと頼むと、才之進は案外に、安々と請負い、わが功をなすはこの時にありと云い、顔に勇み立って、女の身許捜査に掛かった。

この記事が参加している募集

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?