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地上的な、精神的な、階層状の大いなる私の、様々な位置からの目的意識。

目的意識についてはわかりやすくは主に二つあると思います。
この地上的世界での達成という社会内での獲得を目指していく目的意識が通常一番多いかと思われますが、次に多いのが精神的な達成へと向うという方向でしょう。これは社会の中で評価されない方向です。活躍というのとは逆方向でむしろ静けさの方にあるものでしょう。精神修行とか精神の解放の方です。

もちろんのことですが目的意識というのは継続的に持ち続けることによって結果へと繋がります。横道に外れていくようなことがあったとしても、より早めに気が付くことが出来るようにしていくことも重要で、その方が軌道修正も早い方が難しくなくていいということになります。

自分が何かを起こしたとして、その成果や結果を気にして、良い悪いとか、出来てる出来てないという判断ありきの世界では、見える風景が失敗であれやがて発展していくことが当然である、という前提にはなっていないということで、それが弱点となります。
いや、これは実際にはそう思う方が多いでしょう、ということになるかと思うのですが、自分の感情により責任を持つという訓練をしていく中においては、この自己観察は重要になります。

良いか悪いか、出来ているか出来ていないか、ということを気にしているのが常態であるという方々の体験を聞いていると、多くの場合は、感情的に凹むか高揚するかが最も重要視されているということがとても多いのが特徴です。その感情状態によって未来への思いや考え、行動さえもが影響を受けてしまいます。

お話を聴いていると、ご本人は「喜怒哀楽」という瞬間瞬間の感情状態を何より重要視しているという自覚は全く無いわけですが、それ以外の他の可能性を見てはいなかったということをあらためて知った時には、自分自身の感情状態にいかに依存していたのかという状態がよく見えてくるでしょう。



出来事によって一喜一憂することに重点を置いたままではなく、出来事に振り回されないままに継続的に目的意識を持って積み重ねていくことが通常運営だという状態の人は、わかりやすい点を挙げるなら感情に振り回されないのが当たり前という姿勢になっています。

例えば私のように、身体的に出来ない、あるいは出来ない可能性が高い、ということを医師に言われたとしても、それを真に受けてまんまを信じるか信じないかは選択可能なのだということで、私は常に「それをどう捉えるか、どう考えるか」という時間を持ち、あらためて何かを意識的に自分で選んできています。動かせる範囲で可能な道を見つけて行動し、全てを諦めるということを選択しない、ということになります。

しかし感情的ショックを体験するのはもちろんのことであり、けれどそれは私にとっては選ぶということを採用するまでの短い時間のものであって、一過性です。時々戻ってくる感情という体験もあったとして、やはり短い時間の体験です。


私という存在が目的を持つという場合の「私」や「目的」のサイズは、私という存在よりも小さいか、自分の延長線上の未来にあり得ると考えられる範疇のものなので、今ここというところから向っていく到達点へという話になります。社会の中に居る私が、何かを目指して獲得していくという方向性での歩き方です。直線的な始まりと到達点を結ぶ線のようなものです。

逆に、目的(大いなる自分の)が私(地上の)を生かすということをやっている人もこの世の中には結構いるので、だからこそ社会的な何かに向って頑張るのばかりがいいことだ、とは決して言えないもの、だと考えています。

これは本人の自覚が無いままに進むこともある話で、後々になって、そうだったのか! そういうことだったのだ! と腑に落ちるということになります。それまでは、ご本人は、なぜだか思うとおりに運ばない、必ず邪魔されてしまう、必ず他の重要なことの方にいかなくてはならなくて自分のことを後回しにすることになってしまって、気が付いたらもう何十年も経っていた、という方もいます。

でも、それは間違いでも無いし、失敗でもなかった、ということになる場合があるのです。むしろ「それこそが必要だったということか!」という発言をされる方も少なくありません。

世間とか、社会にある一般的な「成功」とか「うまくいく」ということばかりを聞き続け、見続けてきている私たちは、本来の「生命の持っているひとりずつの自然な成功」というところをほとんど意識することなく過ごして来ていることが多いでしょう。そういう教育も受けてきてはいないことが多いし、私たち人間がこの社会の中で経済的に、立場的に、優位であったり成功者であることこそが胸を張っていられることなのだと、そう信じることが多い環境です。

けれど、地球は狭いようで広いし、私たちは多くのものを見てすでに知っているようで実はまるで知らないことばかり、というのが実際の日常です。私たちは自らの身体であるにも関わらず、一本一本のまつげさえ鏡を見ないと数えることも出来ません。背中も鏡に映してなんとか見ることが出来る、というのが事実で直接この目で自分を見ることは誰もが出来ない仕様なのです。外にある何かの力や働きを借りないと見るということさえ難しいというものもあるのだということが事実です。

社会の中にある価値も同じで、形ある成功と形無き成功とわかりやすく二つあります。モノの世界での成功とモノでは無い世界での成功とです。さらにここで付け加えたい普段意識していないけれど存在しているものとして「地球人としての成功・達成」と「地球人以外としての成功・達成」です。

普段は見えていないけれど、気にもしていないという方も多いかもしれませんが、私たちは、どうもこの今回の約100年程の人生だけでは無く、もっともっと長い生命の時間を生きているようなのです。
例えば私が学び研究し続けている占星術の世界のお話になりますが、社会の枠までと、地球人としての枠までと、さらにその外側宇宙に広がっている枠とを見ていくという、とあるサイズ感の占星術の世界では、私たちひとりずつの生命はとても長く、多くの物語を持っているとされています。
地球人としての身体は、地球の成分で出来ている借り物で、本質は意識の方であって、この意識という身体は地球での人生よりももっと長い、と考える世界観です。これは時間と場所をらくらくと越えていきますので、地上での通常の常識とは違った考え方の世界です。

これらを知る以前に私が研究してきた、とある宗派の仏教の世界においても地球や恒星の話、時間や場所を越えていく話はよく出てきます。聴く力や読み解く力によって、また求めるものによって、一体何を師匠として付いて学んでいくのか、感情的満足不満足さという個人体験を正邪として求めるのか、個々でそのあり方はまるで変わっていきます。
お世話をさせていただいていた歴史ある大きめの寺院の集まりで、御僧侶さんの話を聴いたはずの直後に、配られる饅頭や赤飯を取り合うかのように押し合いへし合いとなる現場風景もたくさん見てきました。

良い悪いでは無く、宇宙的なありがたい話が私たちから随分と遠すぎる話のままであって、自分に関係ある話には聞こえないからこそ起きることだと思われます。いい話は聞くモノであって、実際に行うモノでは無い、人間には出来ない、仏様だけにできること、ということが知らず伝播していくということが当たり前のように起き続けていました。
老いも若きもが、まるで幼い子供の頃のように、絵本の世界との出会いのように様々なお話を聴くことが出来ていたら、描いていたなら、実践する遊び場があったなら、きっと違うことが現場で起きるのではないかと思われますが、何かに気が付き、何かを思い立った人たちは、そのように実践して動いていくことを選んで自ら次の新しい旅に出ることになります。

人の充実感、満足度というのは、ひとりずつその価値は違っていて、ひとつの価値に縛られ続けているとしたらこれからの時代は年々歩きにくさを感じることになるでしょう。
さらには、そのお一人自体に変革が起きて、充実や満足の内容や価値が変容を起こすということもあるでしょう。

どのような分野や内容でもどこかで必ず繋がっているものがあるはずなので、これまで知らなかったことをより知っていくということを今のうちに多く体験し、その新しさに徐々に慣れていくという練習しておくといい、ということだろうと思います。
私たちは年齢に関係無く、むしろ関係など無く、拡張していける存在なのだと思われます。形無き世界においては本当は、可能性だらけ、可能性しか無いのだ、と言えるでしょう。歳を重ねるほどにです。
遙か遠い宇宙と内なる宇宙の両方で、自分にとっての縁ある存在や物語が、発見され、思い出されるその瞬間を待っています。



あなただけのこの人生の物語を紐解いて歩きましょう。
昼の地球で、夜の宇宙で、丸ごと一日どうぞよい旅を。
cafeprizm sanaでした。

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