日本人のコンセプト力

最近、この👇経営学者をよく見かけるが、「東大史上初の経営学博士にして平成生まれの慶大准教授が放つ、渾身の日本企業再生論」と謳う『日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか』を読んだらう~んと思ってしまう内容だったので、二点コメントする。今回は一点目。

岩尾の主張は「日本の弱点は経営技術をコンセプト化しないところ」「できないのではなくやらなかっただけ→意識改革一つで克服可能→just do it」というものだが、問題は「やらなかったのはできないから」という可能性が小さくないことである。

経営技術の逆輸入的な状況が発生するもう一歩深い原因は、日本の産官学がコンセプト化にあまり積極的でなかった点にある。コンセプト化には抽象化や論理モデル化といった特徴がある。そして、日本の産官学は、どちらかといえば、具体的な経営技術を開発しつつも、それを抽象化・論理モデル化することにはあまり興味を持たなかったのである。

まずは日本式経営に対する根拠なき自虐をやめ、経営技術の逆輸入という状況を認識したら、次は日本の産官学はコンセプト化の組織能力が低かったことを反省し、それを克服する手段を講じるべきだろう。

このように、経営技術の逆輸入という状況は、意識一つで解消することができるのだ。その意味では、日本経済を取り巻くさまざまな問題の中では比較的取り組みやすいものであるといえるだろう。

そのような指摘はこれまでにも少なくない。例えば、👇の形式合理性が岩尾の言うコンセプト化に相当する。

「合理的形式」を作り上げる、たとえば、神学や哲学のような膨大な思想のシステムを作り上げるということは、日本は弱いらしい。

形式合理性と実質合理性は相補的なものです。たとえば法学の場合、ウェーバーは形式合理的な法体系を、「今ある法体系を実質法上も理論上も崩さないで動かすことを志向する態度」と位置付けています。一方、実質合理性は、法を「情」等で柔軟に運用する、つまり皆で共有すべきものを比較的無視する態度とされています。形式合理性と実質合理性の態度、どちらが重要になるかは状況や局面により異なります。私が危惧するのは、日本人には形式合理性が殆ど無いのではないかという点です。

https://www.rieti.go.jp/jp/events/bbl/07091801.html

同様の指摘はもっと昔からある。

兆民が残した有名なことばに、「わが日本いにしえより今に至るまで哲学無し」というものがある。経験の理論化という点での不十分性が哲学の不在という結果を引きおこしているという理解に基づいて語られたことばであると言ってもよいであろう。

日本哲学入門』p.68

1977年に発表した『経験と思想』では「経験」を、感覚が堆積し、発酵を重ね、そのなかから時の流れに、つまり感覚が風化し、形を失っていくことに抵抗するものが生まれでてくること、そこから時を超えた形あるものが結晶してくることとして説明している。そしてそこから「思想」が形作られていく。「経験」を組織化し、秩序づけ、普遍へと高めたものが「思想」である。ところが日本人の場合――ヨーロッパの人々と比較して――この「経験」の「思想」への成熟がきわめて困難であることを森は指摘している。

『日本哲学入門』p.134-135

岩尾はこの👇ように主張しているが、能力の無い個人を集めても組織レベルの能力は発揮できないわけであり、これまで発揮できなかったのは能力のある個人が少ないからではないか、理屈はその通りでもないものねだりではないかという疑念を払拭できない。

問題は、個々人の論理力というよりも、企業や組織での具体的な現象を抽象化して議論するという、組織レベルの能力﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅である。

日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか』p.306

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