ドゥーギンのシン・リベラリズム分析

ロシアの思想家アレクサンドル・ドゥーギンのリベラリズムの変異についての分析が的確なので簡単に紹介する。西洋(特に英語圏)のエリートが普通の日本人には理解不能な狂気に取りつかれていることがわかるはず。

本題に入る前に前提知識を。

インタビューの始めに出て来るnominalismとはsocial nominalism(社会名目論、社会唯名論)のことで、individualism(個人主義)と密接に関係している。

社会の存在は認めるが、究極的に社会は実在していないと考え、本来社会は個々の独立した個人から成立しているのであって、社会とは個人の集合に与えた名称にすぎないとする考え方。つまり、実在的なものは原子的個人であり、社会はこれらの個人が非本質的に形成した所産で、個人は発生的にも論理的にも社会に優先していると考える。この立場は原子論的社会論ともいわれ、方法論としては個人主義を導き出す。

社会名目論

サッチャーの有名な言葉👇はこれから来ている。

There is no such thing as society. 

There are individual men and women and there are families…

ドゥーギンのliberalismの本質はindividualismという見解はミアシャイマーと一致する("liberalism is all about individualism")。

👇がタッカー・カールソンによるインタビュー(英語字幕あり)。

👇は紹介記事。

ドゥーギンの分析を要約すると、

  • 20世紀には(キリスト教の後継として)fascism、communism、liberalismが生まれたが、アングロサクソンのliberalismだけが生き残った。

  • Liberalismの本質はindividualismであり、集合的アイデンティティからの解放(属性のカテゴリの解体や無効化)を志向する。永続的な解体運動がliberalismの実践とも言える。【⇒サッチャーが存在を認めていた男女の性別や家族も解放・解体の対象となる】

  • 永続解放という進歩の結果、現代のliberalismは、fascism、communismと争った頃のliberalismとは別物のwokeismへと変異している。

  • New liberalism(wokeism)では残った「解放」の対象が二つあり、その一つの「性」からの解放がtransgenderismである。性を肉体から解放して選べるもの(optional)にする。

  • 最後に残った「肉体からの解放」がtranshumanismで、人間を超える存在を目指す。【(⇒Dioの「おれは人間をやめるぞ!」のようなもの)】

  • Old liberalismの政治体制は多数派による支配のdemocracyだがnew liberalismでは少数派による支配のtotalitarianismになるのは、多数派はヒトラーやプーチンを選ぶような誤りを犯すことがあるので、覚醒者にコントロールされなければならないから。

  • 映画のMatrixやTerminatorなどのSFに描かれているのがNew Liberalが目指す社会。

  • 西側諸国がプーチンを敵視するのは、プーチンがwokeを拒否してロシアの伝統的価値観を守ろうとしているから。【(⇒文明の衝突、wokeismとゾンビ正教の宗教戦争、世界観を巡る闘争とも言える】

以下、補足。

👇は上野千鶴子だが、「カテゴリーを解体して個人に還元」がliberalismの本質の「集団的アイデンティティからの解放」のことである。

人種問題にしろ老人問題にしろ、ほとんどあらゆる差別反対運動は、カテゴリーを解体して個人に還元せよという要求をもっているように見える。

女遊び

個人主義という思想は、カテゴリーを解体しつくしそうとする。女の運動もまたそれに手を貸している。大人と子供、男と女、老人と若者というカテゴリーがすべて解体し、平等な個人がむき出された時に、一体どんな理想社会が実現するのか、私自身もそれに手を貸しながら、ふとアンビヴァレントな思いを避けることができない。

同上

ドゥーギンの分析は『西洋の敗北』の著者エマニュエル・トッドのものともほぼ一致している。

革命には政治・経済・文化の各側面があるが、👇はnew liberalismの経済面についての見立て。

まず自由主義を古典的・伝統的な自由主義と、「ウルトラ・リベラリズム」に区別して考えなければなりません。前者は許容できるもので、かつ必要な自由主義とは個人だけでなく、地方自治体や国家など個人を超えたものも大切にするものです。
私にとって聖なる自由主義は、ある程度国家の規制の下に成り立つ経済です。これに対して最近の自由主義はウルトラ・リベラリズムと呼べるもので、常軌を逸した自由主義。これが問題です。個人が一番で、国家は存在しない。そこには市場しかない、といった自由主義なのです。

https://toyokeizai.net/articles/-/3267

政治面の見立てもドゥーギンと一致。

私たちは民主主義の制度を持ってはいても、システムは「寡頭制」とも呼ぶべき何かに変質してしまったように思います。言うなれば、「リベラルな寡頭制」です。それはかなり重大なことになっています。

https://dot.asahi.com/articles/-/13250

👇は個人を原子化するリベラル革命において最重要となる文化革命の核心の性解放、transgenderismのこと。

それよりもむしろ「男女の違いを超える」といったような、そういったディスクール(言説)、考え方が出てきています。
生物学的、遺伝学的に定められた「男女」というものは、そもそもないと考えたり、それを超えられたり、あるいは変えたりすることができるといったような考え方が生まれてきているわけです。

https://dot.asahi.com/articles/-/194696

西洋が生み出しているイデオロギー、極端なフェミニズム、道徳的なリベラリズムの強要などは、西洋以外のより保守的な国の多くを不快にさせています。

https://dot.asahi.com/articles/-/214189

Individualismが他国への干渉・介入につながる"crusader impulse"を生じさせるメカニズムについてはミアシャイマーの説明👇を。

ミアシャイマーは、リベラリズムを「政治的リベラリズム」とみなして、「政治的リベラリズムとは、その核心が個人主義であり、不可侵の権利という概念を非常に重要視するイデオロギーである」としている。彼は、この権利への関心が、地球上のすべての人が同じ権利を持つという普遍主義の基礎となり、リベラルな国家が野心的な外交政策を追求する動機となると指摘している。

ウクライナ戦争をどうみるか』p.95

日本人(のエリート)には根強い米英信仰があり、バブル崩壊後は政治、経済に続いて文化面でも米英を真似た「改革」を進めようとしているが、これほど狂った思想を「人類普遍の正しい思想」と本気で信じて受容するつもりだとすれば、馬鹿に付ける薬はないとしか言いようがない。

彼らが自国の民に何をしたかを見てほしい。家族、文化、国民のアイデンティティを破壊、(性的)倒錯、児童虐待、小児性愛に至るまでがノーマルなことだと宣言され、聖職者、神父は同性婚を祝福するよう強制されている。勝手にやるがいい。ここで何を言いたいか。大人は望むように生きる権利を持っている。ロシアもこのことには同じ態度をとってきたし、これからも常にそうする。誰も私生活に立ち入らないし、我々もそうするつもりはない。
西側世界の何百万人もの人々が、自分たちが正真正銘の精神的破局に導かれていることに気づいている。はっきり言ってエリートたちは気が狂っており、もう手の施しようがないようだ。それでも、前に言ったようにこれは彼らの問題であり、我々がすべきことは子どもたちを退廃と退化から守ることだ。

強調は引用者

付録

当noteでもドゥーギンと似たことを書いていた。


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