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【介護小説】俺なんてどうせ負け組だから #2

 小学生の時から落ち着きが無くて、先生に怒られていた。授業中には教室にいなく外に行ったり、他の教室に居て欠席の人の席に座っていたりした。
 いわゆる、問題児という子だ。

 ただ、勉強は得意ではないがある程度できていた為に、普通に小学校に過ごしていた。運動は北海道出身という事もあり、クロスカントリースキーをやっていた。
 クロスカントリースキーはスキーに乗りながら、ストックを使って走る競技だ。

 小学2年生の時から、スキーの少年クラブに入ると、次々と入賞を重ねた。元々、北海道でスキー人口は多いものの人気のサッカーや野球に比べても競技人口が少ない為に入賞ができた。

 そして、もう一つ空手を習っていた。
 こちらの方が才能があったが、空手を使って学校では良く喧嘩をしていて相手に傷をつけていて、学校でも空手道場でも怒られて僕は小学1年生から習っていた空手を辞める事になった。
 今でも道場の師範からも才能があると言われていたので、辞めた事を後悔している。

 そんな感じで小学生の時は運動は出来るて、勉強はまあまあの子だった。落ち着きの無いと言われた子だったが、この頃から僕は”死”というものに対して恐れるようになった。

 なぜかは、その時は原因が分からなかったが、今考えると早くに伯父さんを亡くした。
  母親の兄の叔父さんは40歳という早さで亡くなった。死因は癌だった。
 僕の両親の田舎は福島だった。今では、両方の祖父母がなくなったので福島に行く事はなくなったが、母方の祖父母の家はラーメン屋をやっていた。

 福島の双葉郡のでは、結構有名なラーメン屋でテレビの取材も来る程だった。だが、祖父は一切テレビ取材などを拒否をし断っていた。

 祖父がラーメン屋を初めたのは、全国各地のラーメンを食べ歩き、誰にも見せない全国のラーメンの店の味の特徴、何を使っているから美味しいのかを丁寧にメモが書かれていた事が、祖父が亡くなる時に母親の弟に当たる叔父に渡されて分かった。 

 癌でなくなった叔父さんは、祖父と祖母に産まれた子供では無かったのだ。それでも、祖父が育てていた。
 祖父は几帳面で厳しい人という印象があった。
 幼稚園の時に落ち着きのない僕は、肘をついてご飯を食べたりするとピシっと手が飛んできて、
「肘なんてついてご飯を食べるものではない」
 と怒られた。

勿論、ご飯中はテレビを禁止されているどころか、話も禁止。正座以外は禁止だった。米を一つも残さずに食べて食器も自分で洗わなければいけない食事は、小学生になる前の僕には楽しい時間とは思えなかった。

介護を本気で変えたいので、色々な人や施設にインタビューをしていきたいので宜しくお願いします。