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『悪は存在しない』ネタバレあり映画感想文 2024/05/05

濱口竜介監督『悪は存在しない』を、2024/05/05、火曜日のゴールデンウィーク中に観てきた。


ストーリーSTORY

長野県、水挽町(みずびきちょう)。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

公式サイト


冒頭の映像の美しさ

冒頭映像は非常に美しい。

雪の中に生じる小さな水たまり。
水面が鏡となり、森を映している場面が好きだ。

雪と鹿の対比も美しい。

濱口竜介さんの「美術館の企画展「悪は存在しない」」に1900円を支払って、石橋英子さんの音楽と一緒にアート作品として観るかのように楽しむという方法もある。雪、森、鹿、鳥、太陽、少女。自然を映す眼差しがどれをとっても絵画のようで、仮に澱んで混乱した心情であっても、冷たく、凛とした空気で鎮めてくれる。

主人公「巧(タクミ)」

巧 役
大美賀均
おおみか ひとし
1988年生まれ。桑沢デザイン研究所卒。助監督として大森立嗣監督『日日是好日』、エドモンド・ヨウ監督『ムーンライト・シャドウ』等に参加、濱口竜介監督『偶然と想像』では制作を担当。2023年、自身の初監督中編『義父養父』が公開。

自然を大切にする主人公が、なんでタバコを吸ってるのか? 
まずそこに違和感を感じた。タバコの火を地面で消していたことも気になった。
実は、巧は自然になんか全然興味がないのでは、という予感がよぎる。

主人公は、開拓3世だ。「便利屋」と呼ばれている。ダブルミーニングだと分かる。最初は、単に、村人たちが不便に思っていること、感じていることを、率先して助ける、そんな存在だと、私は認識していた。実際、そういう側面はあるのだろう。

ただ、最後の場面を見て、「便利屋」の本当の意味を知ってしまう。

主人公は、とても朴訥としている。言葉数は少なく、それは暗号のようでも、詩のようでもある。

この台詞まわしは、濱口竜介監督の特徴だと思う。そして、この抑揚のない発声は、小津安二郎の系譜でもある。

この発声法により、画面に奇妙さ、不安定さ、不協和音を醸し出す。

「水の存在」と「水が意味するもの」

区長が、グランピング会社の町民への説明会で、最後にこんなことを言う。

上から下に水は流れていく
水っていうのは、必ず下に流れる。
上にいるものの義務がある。

ここで言う「水」というのも、きっとダブルミーニングなのである。

文字どおりのH2Oとしての水。
そして、さまざまな害悪をもたらす媒介物という意味。

炭素の排出、公害、食物の流通を想起した。

この場面で、映画『プラットフォーム』のことを思い出した。

階層に分かれた“縦の閉鎖空間”の中で、ルールに縛られながら極限の生活を送る人々を描いた「THE PLATFORM(英題)」が、「プラットフォーム」の邦題で、2021年1月29日に公開されることがわかった。あわせて、予告編と日本版アートワークもお披露目。映像には、下層の人々が、上層からの残飯を食べて飢えをしのぐ様子が切り取られている。



帽子を脱ぐことの意味

そうそう、帽子を脱ぐ場面があった。巧にも、花にも、帽子を脱ぐ動作を割り当てていた。どの場面でその動作を行ったのかは忘れてしまったが、巧は少し上を見て、花はまっすぐ前を見ていた印象だ。何かに敬意を表するときに、人は帽子を脱ぐが、自然への静かな敬礼のように、私は感じた。

「鹿」と「鹿が象徴するもの」

鹿が水を飲む。水飲み場。

鹿が、町民を例えているような気がした。
鹿が、町全体の比喩のように感じた。

以下のような台詞を、巧がグランピング会社の高橋と黛(まゆずみ)に投げかける。

鹿は人を襲わない。
鹿は臆病だから、人がいれば、人に近寄らず、逃げていく。
人が鹿を触るのはいけない。
鹿には病原菌がついているから。
鹿が人を襲うとしたら、それは鹿が弱っていて、逃げられず、戦わざるを得ないときだ。


「町おこし」と「芸術祭」の闇

芸術祭のことを思い出した。芸術祭をやることで、たしかに自然を大きくは壊していないかもしれない。でも、住民の人が、迷惑しているかもしれないという事実に思いを馳せることはほとんどない。

最後の場面の謎

女の子と鹿は実際はいたのか?

女の子は、なぜ左の鼻から血を流していたのか?
鹿の腹には銃弾が打ち込まれていた。

青いダウンジャケットを着た女の子は、画面左側に背筋を伸ばして座り、右側には鹿がいた。

最後の最後で、主人公が、都会の資本主義にまみれた男を殺したのは(多分死んでいるはずだ)、「これ以上、森に来るな、立ち入るな」という警告なんだろう。「社長やコンサルタントを連れて来い」って言ったのは、話し合うためではなくて、殺すためなのではないか。

小坂竜士(こさか りゅうじ)が演じるその男「高橋」は、花が発見された原っぱで、巧に殺害されてしまった。高橋は町に溶け込もうとしていたにもかかわらず、あの殺害は必要だったのだろうか。真の標的は、後ろに控えるグランピング会社を営む芸能事務所の社長であり、アドバイスをするコンサルティング会社なのだろう。

西川玲(にしかわ りょう)が演じる花の存在が、画面を華やかにかつ凛と引き締めてくれる。

花が原っぱで鳥の羽根を見つけて、町長にプレゼントする。その羽根は、巧が町長に渡したようなキジ(?)の羽根なんかではなく、真っ黒な羽根だった。

区長が、「花ちゃん、勝手に原っぱにあんまり行かない方が良いよ」と言っていたが、それも最後の場面を見てから想起すると不気味である。

花が行方不明になった時、みんな慌てて、町民総出で花を探していた。その様子は、本当に一生懸命だった。

そんな中で、区長はぼうっと、無表情に近い顔で、ガラスの窓から外を眺めていた。とても不気味な表情をしていたのが、印象的だった。

高橋の殺害は、花もグルだったのか?

町として、今までも何人も殺してきたのだろうか?あまりにも手際が良くて、スムーズだったからだ。殺人は村人によって、隠蔽され、明るみになることはないのだろう。

自分自身をコミュニティーの中に入れるかどうかそれは誰が選別するのだろうか。単に区長が気に入ったかどうかで判別していたのではないか。気に入らないものを選別しただけではないか。

黒沢清の映画を見ているようだ。
結局人が1番怖い、そういうことだろうか。

もし便利屋が、町を代表して、警告のために高橋を殺したんだとしたら、それはやりすぎだ。一見すると、バランスを欠く行為だと思う。

やりすぎたら、森は壊れる。

君は、どの立場に自分の身を重ねるのか?

僕らは住民側のようになっていないのだろうか。
自分自身をどの立場であると定義するかによって君の人生は変わってくる。
グランピング運営会社、補助金コンサルタントという立場に、自分の身を重ね合わせるのは容易い。

そして、無垢の町民に自分自身を重ね合わせるのも、容易かもしれない。

でも、君の行動は、いつしか「便利屋」のそれになっているのかもしれない。

深まる謎

なぜ花の母であり、巧の配偶者は、先立ってしまったのだろうか。言及がない。

悪は存在しない。では、何が存在しているのか?

蕎麦屋の場面。蕎麦屋でどんな話題が交わされたのだろうか?

森と森が人に与える影響

森の風景は美しい。水を運ぶ、植物に触れる。

植物に触れ、動物を目にし、毎日、大自然の中で育っていたら、どんな子供に、どんな大人になっていたのだろう。そんな想像のきっかけも作ってくれる映画だ。

鹿は人を襲わないけど、人は人を襲うんだ。鹿は臆病なんだ。だから、基本的には逃げる。

自然は大事だと言われる。でも、自然と自然に触れている狭い人間関係に中でずっと過ごしてきたら、人はどうなるのだろうか、という点も考えさせられる。

自然だけを奉り、重要視すれば、うまくいくのだろうか?という問いを投げかけてくれている。

京極夏彦の儒教をテーマにした小説『陰摩羅鬼の瑕』を想起した。

陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) (講談社ノベルス) 新書 – 2003/8/9
京極 夏彦 (著)
5つ星のうち3.9
71個の評価

凄い!京極小説。
あの「夏」の衝撃が甦る。未体験の京極ワールド。
白樺湖畔に聳える洋館「鳥の城」は、主の5度目の婚礼を控えていた。過去の花嫁は何者かの手によって悉く初夜に命を奪われているという。花嫁を守るよう依頼された探偵・榎木津礼二郎は、小説家・関口巽と館を訪れる。ただ困惑する小説家をよそに、館の住人達の前で探偵は叫んだ。――おお、そこに人殺しがいる。

また、以下の本も想起した。同じレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』も思い出した。

野生の思考 単行本 – 1976/3/31
クロード・レヴィ=ストロース (著), 大橋 保夫 (翻訳)
5つ星のうち4.5
120個の評価


野生の思考La Pensee sauvageは、1960年代に始まったいわゆる構造主義ブームの発火点となり、フランスにおける戦後思想史最大の転換をひきおこした著作である。
Sauvage(野蛮人)は、西欧文化の偏見の凝集ともいえる用語である。しかし
植物に使えば「野生の」という意味になり、悪条件に屈せぬたくましさを暗示する。
著者は、人類学のデータの広い渉猟とその科学的検討をつうじて未開人観にコペルニクス的転換を与えsauvageの両義性を利用してそれを表現する。
野生の思考とは未開野蛮の思考ではない。
野生状態の思考は古今遠近を問わずすべての人間の精神のうちに花咲いている。
文字のない社会、機械を用いぬ社会のうちにとくに、その実例を豊かに見出すことができる。
しかしそれはいわゆる文明社会にも見出され、とりわけ日常思考の分野に重要な役割を果たす。
野生の思考には無秩序も混乱もないのである。
しばしば人を驚嘆させるほどの微細さ・精密さをもった観察に始まって、それが分析・区別・分類・連結・対比……とつづく。自然のつくり出した動植鉱物の無数の形態と同じように、人間のつくった神話・儀礼・親族組織などの文化現象は、野生の思考のはたらきとして特徴的なのである。
この新しい人類学Anthropologieへの寄与が同時に、人間学Anthropologieの革命である点に本書の独創的意味があり、また著者の神話論序説をなすものである。著者は1959年以来、コレージュ・ド・フランス社会人類学の教授である。

閉じられた世界、コミュニティによる狂気という意味では、『悪は存在しない』は、ミッドサマーのような映画とも言える。


コミュニケーションと動物と人

外部の人間とのコミュニケーションが通じない社会。
コミュニケーションが、すべての課題を解決するツールだと思い込まされている、今の社会。
人同士、話せば分かるはずだという教育、訓練、虚構。

話せば分かるなんて、嘘だ。
20000年前から人の脳は進化していない。

今の人は、言語のコミュニケーションに頼りすぎている。
ゲーリー・チャップマン『愛を伝える5つの方法』によれば、愛の言語には五つの種類がある。


①肯定的な言葉:愛情、称賛、感謝を言葉で表現する。
②サービス行為:言葉よりも行動で愛情を示したり受け止めたりする。
③贈り物:愛や好意の象徴として贈り物をする。
④クオリティ・タイム:中断や邪魔の入らない上質な時間で愛情を示す。
⑤身体的なタッチ:セックスや手を握るなど、身体的な接触を通じて愛情を感じる。

ゲーリー・チャップマン『愛を伝える5つの方法』

相手がどんな言語を使っているのかを知れ、というのが本作の一つの教訓だろう。

人を信じていますか。
人を信じるためには、相手を知ることだ。
相手が使う言語を知らずして、相手を本当に理解することはできない。

『三体』によると、人は嘘をつける動物だ。その動物としての習性が、言語によるコミュニケーションを難しくしている。

相手は、「暴力」をコミュニケーションのツールとして利用するかも知れない。

一人で観にいくか、誰かと観にいくか?

これは一緒に誰かと見る映画ではない。1人で映画を見にいってよかった。他の誰かとこの映画を観にいく場合は、語り合える仲間と一緒にいくのが良いと思う。

「観た直後の感想」と「時間の経過と共に生じる印象の変化」

「そもそも何を表現しようとしているのかがわからない。映像が綺麗なだけのひどい映画だ」と、映画を観た直後に、そう感じていた自分がいた。

「この映画は、僕らをどこに連れて行こうとしたんだ。全く何も得られるものはない。何をどこまでやろうとしていたのだろうか。全然意味がわからない。」とも思った。

でも、約24時間経過して、だんたん理解が深まってきた。

変わらない日常と変わらない生活。永遠と続く繰り返しの日常と生活。
そこに外部からの侵入者が現れる。
侵入者が入ってくることによる町の変化。

町の変化を描くためには、変化が生じる前の状態をしっかりと描き切る必要がある。そのために、冒頭の冗長な自然の描写は必須なんだと思う。

以上


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