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自然体(素の姿)の素晴らしさ!

有りの侭の自分と向き合う

⇒実の如く、自心を知る心身の活動

仏教の教えに
実の如く、自心を知る
という言葉があります。
「有りの侭の己の心」
を知ると言う意味です。

私達の殆どは、
「自心」即ち、
自らの心や意識、態度行為は、
自分自身が一番解っている
と思い込んでしまっています。

特に、歳を重ねない若い頃は
そう思うことが度々がありました。

でも、そのような間違った思い込み
をすることは、実は大きな過ちで
あったと壮年になって気付きました。

厄介で面倒な自分自信と
向き合い、指差す」ことを避け、
比較的楽に取組める周りの人の
行為や人の目=思惑が気になり、
自分自身とじっくり向き合わなかった
自分が居ることに気付きました。

いま振返って見ると
仕事柄とは言え己の内なる心に
少しも目を向けず外への目に重きを
置いて生きて来たように思えます。

自分のことはさて置き、
他人様のことをどうこう思うこと、
他者の行為を批評する言うことは、
実は、先ず己の器の大小を謙虚
知った上でそれを受容れなければ
ならなかったとも気付きました。

この
実の如く、自心を知る
の言葉は、自分自身の心と真摯に
じっくり正面から向き合うことで、
真実(真)に気づくことが出来る、
と言う意味だそうです。

私達の日常生活を振返ってみると、
いつも頭の中で自分と対話しています。

何かを実体験した時、
己の感性(頭の中)でそれを文章に
してから自らに語りかけています。

この「セルフトーク」が現実的で
正しくあれば、精神は健全な状態
に保たれると体感しました。

しかし、
間違った感性で物事を捉え受容れ、
それを自分自身に語りかけていると、
様々な不の感情や余計なストレスを
感じて精神的に落ち着きのない状態
に追い込まれてしまいます。

そのようなこと無いように、
自分の心を確りと見つめ知りて、
受容れ理解し、認めましょう。

そうすることに依って、
自分自身を素直に認め受容
出来るように成れます。

私心無く、実の姿、自心の本質が
見えるようになって来ると不思議と
他者の心も見えるようになります。

それは、
先ず人を思う心身の活動である
思い遣り】に繋がるのです。

何かと忙しい年末や期末の時期でも、
今年一年の自分自身を素直に振返り、
一度は受け入れてみることです。

このように自らを省みることが
出来る人に可能性のある明るく
豊かな実りある道が開けて来ます。

💖有りの侭を知る-五徳の解説

自心と正対するための意識、
心得は何時も以下の図
仁・義・礼・智・信】の夫々
を心の片隅に置くようにすること。

五徳

何らかの言動態度をした時に
これに照らすことはとても自らの心の
在り方・生き方を顧みるために役立ちます

【仁】人を思いやることに素直にあれ

人を思いやること、これは内面的なもの。
詰り気持ちの事を意味しています。

「思いやの行動には示さなくていい」
と、思われる人がいるかもしれませんが
決してそうではないと思います。

孔子は『論語』で、
「仁」を以って最高の道徳であり、
日常生活から遠いものではないが、
一方では容易に到達出来ぬもの、
と説明がなされている。

ある場合は「人を愛すること」と説明し、
顔回(ガンカイ)の質問に対しては
「克己復礼」こそが、「仁」である。
=私心を克服して礼を重んじること。
即ち
「己に克ちて、礼を復むを、仁と為す」
と孔子は答えています。

前者は外部に対する行為を指し、
後者即ち顔回に対する答えは
自身の内なる修養のあり方を指している。

具体的な心構えとしては、
「己れの欲せざるところ、
 これを人に施すなかれ」
がよく知られています。

即ち、「仁」とは、
思いやりの心で万人を愛し利己的な
欲望を抑えて礼儀をとり行うこと。

【義】正義を貫くに素直にあれ


正義。これは行動規範とも言えます。
孔子が『論語』の中で著した、
「義を見てせざるは、勇なきなり」
(人の道として当然行うべき事と
 知りながらこれを実行しないのは
 勇気がないということ)
との言葉は余りにも有名です。

私利私欲に囚われず、
成すべき事を成すことです。
中国思想においては、
常に「利」と対比される概念です。

利己主義即ち、
自己中心的な行動を取り、
他者の存在を二の次とする
利己的な行為を行わない事であり、
利他的な行為を取るように
することを意味すると思います。

武士道での中心、克つ最も厳格な徳目
はこの「義の精神」とされる。

「義」とは、
打算や損得のない人としての正しい道、
即ち正義を指すものであり、
「義」から派生した言葉に
大義・道義・節義・忠義・仁義・信義・
恩義・律義、更には義理・義務・
義憤・義侠・義士・義民・義挙などがある。

日本で武士と言われる古の人は、
この「義」を武士道精神の中心に据え、
これを踏み外した者は卑怯者
として糾弾の対象とされました。

「義」には「正しい行い」と同時に
「打算や損得から離れた」との意味
が含まれ、人間の根源的なエネルギー
とされる欲望を制御しなければ
なし得ないとの意があります。

現代人の多くが行動判断の基準
としている合理的精神は突き詰めれば
「どちらが得か」との相対的なものです。

それに対し武士道における「義」は、
普遍的な「良心の掟」に基づく
絶対的価値観を基本とする言わば
不合理の精神であり、この「義」
を遂行する為には余程の自立心を
養わなければならないとされました。

新渡戸稲造はその著『武士道』で、
武士道の基本は「フェア・プレイ」
の精神と言い、武士らしさの根源とは
「義を貫く」ということであり、
武士は例え戦いに勝ったとしても、
不正な行為をして勝った者は
誰からも賞賛されなかった。

「敵に塩を送る」との諺の元
となったとされる上杉謙信の有名な
エピソードですが、こうした話が美談
として長年伝えられたのは、
裏を返せばそうした侍が少なかった
と捉えることが出来ます。

武士道が「義」を最高の支柱に
置いたということは、言い換えれば、
そうした至難の「義」を追求する事
により精神の「美学」を求めたのでは
ないかとも考えられる。

生死をかけた戦いに望む際、
全ての武士が上杉謙信のように
フェア・プレイの精神を守った
わけではないと思われます。

生きるか死ぬかという場面において、
例え卑怯者と蔑まれようとも
勝ちたいと思うのが人情であり、
またいつの世にあっても本能は
美学よりも強く、理想は現実の前
に打ち砕かれるのが世の常です

だからこそ、
武士道はそのことを十分知りながら、
その現実を超越する己の理想の
指針として厳しく求めたのです。

【礼】礼を尽くすに素直にあれ 

仁によって育まれた気持ちを
礼に依って形とし表すこと。

仁のみであってはいけませんし、
仁なくして礼はあり得ないという事です。
即ち、
「仁」を具体的な行動として表したもの。

元々は宗教儀礼でのタブーや
伝統的な習慣・制度を意味していた。

後に、人間社会の上下関係で
守るべきことを意味するようになった。
儒者のなかでも、性悪説の立場に立った荀子は特に「礼」を重視した。

※礼(れい)とは、
 様々な行事の中で規定されている
動作や言行、服装や道具などの総称。
春秋戦国時代、儒家によって観念的な
意味が付与され、人間関係を円滑に
進め社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)
を維持するための道徳的な規範をも
意味するようになったと言われる。

【智】知(知恵)を磨くに素直にあれ

学問に励むこと、知識を重んじること。

勉強ができない人や知識がない人を
愚か者だと貶す風潮がありますが、
勉強ができるから賢いとは限りません。

机上の論理計算だけ達者であっても
愚か者と呼ばれることすらあります。
真の愚か者とは同じ過ちを繰り返し
何も学ばない存在を意味します。

【信】人を信じるに素直にあれ 

言明を遵守し、約束を守ること。

今の世の中に、
最も欠けていると言えることであり、
私自身が五徳の中で最も大切と感じる

〇五徳無くして五倫有らず
友人、知人、親や兄弟と言った
全ての人間関係における在り方。

当たり前に感じている人間関係こそ
どこかで見つめ直す必要がある。

友情に厚く、言明を違えないこと、
真実を告げること、約束を守ること、
謙虚で正直、誠実であること。

孟子の四端説における
「仁義礼智」の四徳に対し
前漢の董仲舒は五行説に基いて
この「信」を加えた。
仁は同情心、
 義は正義感、
 礼は社会的節度、
 智は道徳的分別に
 信を加え【五常】となる

〇伊達政宗五常訓

現在社会でも通じると思われる

仁に過ぎれば弱くなる。
義に過ぎれば固くなる。
礼に過ぎれば諂となる。
智に過ぎれば嘘をつく。
信に過ぎれば損をする。

気ながく心穏やかにして、
よろずに倹約を用い、金を備うべし。
倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり、
この世に客に来たと思えば何の苦もなし。

朝夕の食事は、
うまからずとも誉めて食うべし、
元来、客の身なれば
好き嫌いは申されまい。
今日の行くを送り、
子孫兄弟によく挨拶して、
娑婆しやばの御暇申するがよし。

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