1m50cmの自制心


(これは事実を基にしたフィクションです)


 冬のある日のことだ。旧友の吉岡から電話がかかってきた。挨拶と他愛もない近況報告を済ませると、声のトーンを落として「あのな……」と吉岡は切り出した。思わず背筋が伸びた。
「坂口が……死んだらしい」
 吉岡が「亡くなった」、ではなく、「死んだ」という言葉を選んだところに、何やら不吉なものを感じた。
 どこで、どうして、と思わず矢継ぎ早に質問を浴びせかけたが、吉岡も詳しいことは知らないらしく、とにかく風の便りに坂口が死んだという事実だけを知ったものらしい。
 吉岡との電話を切ったあとも、信じられない気持ちが残った。なぜなら、二か月ほど前に坂口とは会って酒を酌み交わしたからだった。あの時は元気そうにしていたから。

 私はそれから、あちこち電話をかけては、誰か何か知らないか聞き出そうとしたのだが、なかなか埒が明かなかった。しかし、何とかこの“噂”の発信源が富樫であるらしいことまではわかった。
 富樫によれば、彼の実家──死の直前までそこに住んでいた家──に「忌中」の張り紙がしてあったのをたまたま見かけたのだという。坂口の実家は大きな道路に面していたから、眼に入ったのだそうだ。
 坂口の家で誰か亡くなったのだろうか、と新聞のお悔やみ欄を数日注意深く読んでみたのだが、結局坂口家のものらしいお悔やみを見つけることはできなかったのだという。

 私は何か嫌な予感がして、直接坂口の家を訪ねてみたが、返事がない。何度かチャイムを押したところで、隣家からおばあさんが顔を覗かせた。
「その家にはもう誰もいないよ」

 富樫に無理を言って、某市内の喫茶店で落ち合ったのはそれから間もなくのことだった。
「あの家は確か……」
 富樫と記憶を擦り合わせていく。坂口は社会人になって家を出て、所帯を持っていた。長らく、実家には坂口の両親が住んでいたはずだ。ところが、三年ほど前に父を、その翌年だったかに母を、相次いで亡くしたらしいことは聞いていた。どちらの葬儀も内々で済ませたらしく、友人連中で参列した者はいなかったはずだ。
 そして確か昨年、坂口は離婚して独り身になると、空き家になっていた実家へと戻ったらしいという話だった。
 そうすると、きょうだいのいなかった坂口の家の玄関に貼り出されていたという「忌中」の張り紙は坂口本人の忌中を意味したのだろうし、その家にはもう誰もいないという隣家のおばあさんの発言もそれを裏付けた。

 坂口の最期の様子を何としても知りたかったが、家に誰もいないのでは仕方がないし、坂口の親戚の連絡先もわからないから連絡の取りようもない。手帳の1ページを破って「こちらまでご連絡を」と自分の携帯電話の番号を書き付けて郵便受けに投函してきたが、それだっていつ誰の目に触れるかわからない。
 仕方がないので、隣家のおばあさんを訪ねることにした。どんな暮らしぶりで、どんな葬儀が営まれたのか、聞き出せることがあるかもしれない。
「そうねえ、仕事に出掛けて帰ってくる以外はほとんどずっと家の中にこもっているような人だったねえ。挨拶なんかはちゃんとしてたけれど……」
 おばあさんの最近の坂口に対する印象はそんな感じだったらしい。そういえば、二か月ほど前に坂口と飲んだときに、国家資格の勉強をかれこれ二年ほどやっているような話はしていた。だから人気ゲームの『艦隊少女』も『ウマ息子・ガチムチ菊花賞』もやめてしまったと、スマホには前の機種から自動的に引き継がれた囲碁や将棋のアプリは入っているそうだが、全く起動させていないと言っていた。
「朝も早くから夜遅くまで電気をつけていてね、そうそう、雨の日も雪の日も朝の6時になると決まって玄関先に出てきて空を眺めていたよ。何の日課なんだかねえ」
 随分睡眠時間も削っていたようなことも確かに言っていたはずだ。さらにおばあさんは口を開く。
「年が明けて間もなくだよ、家に帰らなくなって、ずーっと家を空けていたのよ。それからどれくらい経ったころかねえ。おこつになって戻ってきたのは」
「お骨になって?」
「ああそうさ。おばさんが雪はねをしていたらさ、そこに車が停まって、喪服姿の人が骨壺抱えて降りてきたのをたまたま見たんだよ。お弔いともなれば多少は人の出入りはあるだろうけど、そんなのもなしに、いきなり骨壺抱えて帰ってきたから、おばさんびっくりしてね」
 しばらく家を空けて、骨になって帰ってきた? どこか余所よそで亡くなったのだろうか。病院に入院でもしていて亡くなったのなら、遺体でまず帰ってくるはずだ。そうなれば数日間は親戚や関係者が出入りし、今度は棺桶で家を出て、骨になって戻ってくる。それが普通だ。
「どこに出掛けたのか、ご存じじゃありませんか」
「いいや、知らないねえ」
 隣家のおばあさんからは、それ以上のことを聞き出すことはできなかった。

 それから私は、あちこち連絡を取っては、坂口の向かった先を知らないか、尋ねて回ったが、結果は芳しくなかった。
 それでも、昔から何かと事情通で有名だった河村に3度目に連絡を取ったとき、「そういえば、あいつのnote知ってるわ」と言い出した。私はさっそく河村と落ち合うと、坂口のnoteを片っ端から読んだ。ペットショップでソマリという可愛い猫に出会った話や、ペットショップで出会ったモモンガの姿が目に焼き付いて離れない話、今朝の『ちいかわ』の話など、比較的どうでもいいことが綴られていた。
「あいつの好み、意外だな」
 坂口の知らなかった一面を見つつ、先を読み進めた。するとどうやら昨年の秋くらいから、精神的に不安定なところを感じさせる記事がポツポツと出てき始めた。くだんの国家試験に不合格となった後あたりからのようだ。
 そしてある記事を読んでいたとき、私と河村は同時に「あっ」と声を上げた。とある記事に、「冬の日本海に行ってみたいと思っていた」と書かれていたからだ。これまでどこかに行きたい、旅をしたいといった内容はなかったから、範囲は広いながらも、具体的に行きたい場所が書かれた記事に目が留まったのだ。
 その後はnoteの更新頻度も落ち、ここ二か月ほどは更新もされていなかった。
「しかし、冬の日本海といっても広いぞ」
 私が言うと、河村は、
「もしかしたら、新聞の記事になっているかもしれない」
と言い出して、「坂口裕行」という彼の名前フルネームと、いくつかの冬の日本海にまつわるキーワードを組み合わせて、検索を始めた。
「ビンゴだ!」
 河村が小さく叫んだ。「坂口裕行 福井」と検索したところ、地方紙の記事がヒットしたのだ。

病院の駐車場から男性が転落死
 XX日午後4時ころ、K市民病院の立体駐車場前の路上で男性が倒れているのを通行人が発見し、病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。所持品から男性の身元は北海道B市、坂口裕行さん(48)とわかった。坂口さんは立体駐車場の屋上から転落したものとみられ、K警察署では事故と自殺の両面で調べを進めている。

 ついに、坂口の最期の場所がわかった。
 私は、坂口がどんな場所で、どんな最期を迎えたのか、知りたいと思った。もしかしたら私が、生前の坂口に会った最後の友人であったかもしれないからだ。私には、坂口の最期を「見届ける」義理があるような気がしていた。

 ほどなくして、私の勤める会社で金沢支店への出張の話が持ち上がった。私はそれに手を挙げ、金沢支店に出張することが決まった。同時に、私は数日の休暇を願い出た。金沢出張のあと、数日福井に出向くためだ。たまたま有給休暇がたくさん残っていたので、比較的簡単にOKが出た。当然滞在費は自腹だが、上司は快く「たまには羽を伸ばして来い」と言ってくれた。

 福井に出向く前に、会っておきたい人がいた。高校時代の同級生、田嶋だった。田嶋は職業柄とても多忙で、札幌市内で一時間だけなら、という条件で会ってくれることになった。坂口は、去年の夏に思いがけず田嶋と再会したという話を、二か月前の酒の席でしていた。だから、聞いておきたい話もあったし、話しておきたい話もあった。
「坂口君、亡くなったんだって?」
 話が早い。
「ああ。自殺だったようだ」
「あたしたち、去年の夏にばったり会って、いろいろ話をしたんだけど、あんなに元気そうだったのにね。何があったんだろう」
「何か聞いたり、感じたりしたことはなかった?」
「うーん、資格試験の勉強は随分頑張ってるって話はしてたかな。なかなか一筋縄ではいかないって、ちょっと悩んでる様子はあったけど」
「そのことなんだけどさ」
 坂口は、高校3年の秋、推薦でS大学への進学を早々に決めた。だから坂口はあのヒリヒリするような、受験戦争の最前線を戦っていなかった。誰でも一心不乱に勉強する時期があって、坂口にはそれが今来ていること、あのころのクラスメートは全員が経験したことだから、これで坂口も一緒だね、と田嶋から言われたことを私に話してくれていた。
「どこまで坂口が話したかは知らないんだけど。俺はその代わり3年間、みんなが遊んでいるときでも、不断の努力を重ねてきて、好い成績を残したんだよ、そこを見てもらえないと俺は立つ瀬がないよ、と言っていたんだ」
 少し田嶋の顔が曇った。
「もしかしてあたし、坂口君のこと、追い込んだのかな?」
「それはない。それはないよ」
「どうしてわかるの? もう坂口君亡くなって、確かめようがないのに」
「嬉しそうに話してたからさ、田嶋のこと。立つ瀬がない、なんて言いながらあいつは笑ってたよ。再会して、いろんな話ができたのがよっぽど嬉しかったんだろうな。田嶋はいつも俺のことを励ましてくれるんだって、坂口のあんな表情は初めて見たよ。もしかしたら、坂口の人生の、最後のいい思い出になったんじゃないかな」
「そう……」
「まああいつ、田嶋のこと好きだったしな」
「うそ! 坂口君が好きだったの、佳菜ちゃんでしょ?」
「あれは妹みたいに可愛がってただけさ。あいつ、きょうだいがいなかったから。坂口は田嶋に想いを寄せてて、高嶺の花だからって降りただけさ」
「そうなのかー、知らなかったな」
「『高校時代の田嶋は可愛かったよな』と言ったら、『過去形か!』って怒られた話もしてたよ。それはもう楽しそうにね」
「ははは」
 昔話に花を咲かせて、約束の時間を30分ほどオーバーして、私たちは別れた。

 私は金沢支店での業務を早々に切り上げると、福井へと向かった。話には聞いていたが、冬の北陸の天気は厳しい。K駅から少し歩いたところに、K市民病院はあった。市民病院の道路を挟んだ向かい側に立体駐車場はあった。その立地は、坂口が働いていたN市立病院によく似ていた。
 K市民病院の事務に坂口のことを聞きたい、と電話で申し入れたが、そのような件には親族でなければ応じられないと断られた。立体駐車場に入ってもいいかと聞くと、立体駐車場は誰でも入れるところだからそれを止めることはできない、その代わり場所が場所だけに花や線香を手向けたりするのはやめてくれ、と言われた。
 まあそうだろう。個人情報の保護がうるさい折だ、何の収穫も得られないだろうことは予想していた。そこで、駐車場のガードマンに声を掛けてみることにした。多分ガードマンは病院の委託業者だろう。多少ガードが甘いかもしれない。
「すみません、最近ここで中年男性の自殺があったように聞いているのですが」
「その件については病院の管理部門から何も話すなと言われております」
「ああ、いや、亡くなった人の個人情報を聞き出そうと言うんじゃない、どんな状況だったか聞かせてもらえませんか。亡くなったの、私の友人なんですよ」
「あ、そうですか。それはご愁傷様です」
「事故や事件の可能性はないんですか?」
「目撃者が何人かいると聞いております。私もその一人ですが」
「どんな様子でした?」
「男性がですな、屋上の壁に上って、……かくかくしかじか……というような状態でして」
「なるほど……わかりました。ありがとうございます」
 この状況にはピンと来るものがあった。以前、海外ドラマ好きの坂口が私に『ハッピーバレー』というドラマを薦めてきたことがあった。その第2シーズンのラストで、犯人の男性が自殺をするシーンと酷似していた。確実に死ねる方法としてドラマのシーンをまねた可能性は十分にある。

 私は一旦病院を離れ、K警察署に向かった。
 警察署の窓口で事情を話し、坂口の自殺の件を担当している刑事を紹介してもらった。小太りで前髪の生え際が随分と後退しているその刑事は、こちらが話を切り出す前に、
「どういうご関係?」
といきなり聞いてきた。私が坂口の友人であり、彼の最期を調べていることを告げると、
「それでわざわざ北海道から福井まで来なすった? それはご苦労さんなことですなあ」
と言いながら応接セットに通してくれた。
「まあ普通は親族以外には詳しい話はせんのですがなあ……。ちょっと事情聴取にお付き合い願いませんかねえ」
そう言われ、小さな会議室に連れて行かれた。
 私は坂口との関係を高校時代にまでさかのぼって、二か月前に会ったことまで話した。刑事は、noteの存在までは知らなかったらしく、興味深そうに私のスマホを覗きこみ、熱心にメモを取っていた。
「いろいろとどうもありがとうございました。普通なら自殺で簡単に処理するところなんですがなあ、1点だけ、ちょっと不可解なことがありましてなあ」
「不可解?」
「まあ不可解というか、不自然というかですなあ……、坂口さんはスマートフォンを持っておらんかったのですよ。身分を示すもの、マイナンバーカードや保険証なんかは携帯しておったのに、スマートフォン、それから運転免許証──これはスマートフォンのカバーにでも入れておったのだと推測しておるわけですがなあ、これがない。身分を隠そうとしたわけでないのはハッキリしておるわけですなあ。あらかたどこかのゴミ箱にでも捨てたんだろうと思うとるわけですがなあ、何を処分しようと思ったのか……。それが藪の中なんですわ」
「残念ですが、スマートフォンの件は私にも……。メールか何かでしょうかね」
「まあ開示請求することはできるんですがねえ、さして重要な事実が発覚するとも思えんのですなあ」
「K市民病院に行くまでの足取りはわかっているのですか?」
「うん、まあカードを使った履歴はある程度追えてはおるんです。東尋坊に行ったのではないかと踏んではおるんですが、明確な証拠は上がらずじまいですなあ」
「K市民病院を死に場所に選んだ理由は……」
「こちらが聞きたいくらいですなあ。いくら坂口さんが病院関係者だとはいえ、K市民病院のことを知っておったとは思えんのですわ」
「そうですよね……」
 饒舌な刑事のおかげで、本来ならば知り得ない情報を手に入れることができた。

 やはり刑事の口からは「東尋坊」の三文字が上った。名所●●として有名な場所だ。冬の日本海に死に場所を求めるとするならば、真っ先に名前が上がってもおかしくない場所だ。
 しかし、東尋坊はその自殺者の多いことから、ボランティアによる自殺防止の活動が非常に活発なところだ。一度東尋坊に足を踏み入れようとして断念したか、あるいは初めから東尋坊を除外したのか……。
 インターネットで通りを歩くようにして世界中の景色が見られる時代だ。日本海沿岸の病院を片っ端から検索し、条件に合う──立体駐車場を擁した──病院をK市に見つけたのかもしれない。
 地方都市だと、病院がその街最大の建物というケースがある。坂口が勤めていたN市立病院もまた、そのような病院であり、市内に唯一の立体駐車場があるのがN市立病院なのだ。K市民病院も、同じような位置付けなのだろうか。

 私はK市役所にも行ってみたが、当然のように坂口のケースについては何も教えてはくれなかった。ただ、一般論として、役所で遺体の引き取り手を探し、遺体を引き取ってもらうこと、最近は遺体を空輸せずにこちらで荼毘だびに付してから遺骨の状態で引き取られることが多いことなどは教えてくれた。

 私は再びK市民病院の立体駐車場の屋上に立った。あの日、坂口が最後に立った場所だ。屋上の壁は、だいたい1m50cmほどの高さだった。坂口は、この1m50cmの壁を乗り越え、向こうの世界へと飛び立った。
 坂口よ、おまえはこの1m50cmの壁をやすやすと超えてしまうほどの自制心しか持ち合わせていなかったのか。いや、そこには想像を絶するほどの葛藤があったのかもしれない。しかし、いずれにせよ、おまえの自制心は1m50cmの高さしか持ち合わせていなかった。1m50cmの壁をよじ登る勇気を、他のことに使えなかったのか。坂口よ。その勇気で、明日を生きてみようとは思わなかったのか。その勇気で、誰かにSOSを発してみようとは思わなかったのか。
 私に、坂口、お前を救えなかった後悔だけを植え付けて逝ってしまうなんて。

 私はその夜、福井市内の繁華街のはずれにある居酒屋に入った。時間帯のせいか、店が寂れているせいか、客は私一人だった。70がらみの店主は静かに「何にします」と、カウンターに突き出しを置いた。
「とりあえずビールと言いたいところだけど、おやじさん、献杯に付き合ってくれませんか」
 店主は小さく「ああ」と言い、コップと日本酒を出してきた。「何でもいいかい?」と聞き、私が頷くと酒を二つのコップに注いだ。
 私はこれまでの経緯と、坂口の人となりについてかいつまんで話す。店主は居眠りでもしているかのように目を瞑り、小さく頷きながら話を聞いていた。
「身寄りらしい身寄りもなく、今となっては仏前に手を合わせることもできない。だから、せめてこうして坂口を送らせてやってください」
 店主は、静かに顔を上げた。
「献杯」
 そうして口にした酒は、ほんのり涙の味がした。

「そうは言ってもお兄さんよ、死んでいく人が何を思って死んでいくかなんて、誰にもわからないことよ」
 居酒屋の夜は次第に更けていったが、不思議と客は来なかった。
「俺も何十年も前に父親を亡くしたけど、最後は言葉も喋れなくなってたし、当人が幸せな人生だったと思ってたかどうかなんて、確かめようがなかった。お袋は朝起きたら冷たくなってたしな。そんなもんだよ、人の死なんてものは」
 私は黙って店主の話を聞いていた。店主は意外なほど優しく、私を慰めてくれるのだった。居酒屋を長くやっていると、時にこういう場面に出くわすのかもしれない。
「それでも」
と私は口を開いた。
「北海道からわざわざ福井まで出てきて自殺するなんて。どうして最後にたくさんの人に迷惑を掛けて死ななければならなかったのかと、言ってやりたいですよ」
「兄さんよ、この時代、人ってのは誰にも迷惑を掛けずに一人で死んでいくというのは無理よ。必ず誰かの手を煩わせるんだ。だからそこは許してやんなよ。誰でも必ず死ぬんだからよ。俺のお袋のときだって大変だったんだ。静かに逝ったように見えてさ、警察まで来て大騒ぎだったんだ。せめて息があって、救急車にでも乗せてやれてたらよかったんだけどな」
「そ、そうですか……」
としか言葉が出なかった。坂口に対して抱いていた負の感情が、店主のおかげで少しほぐれた気がした。


 私は出張から北海道へ戻ると、N市立病院に行ってみた。立体駐車場に向かい、屋上への階段を一歩一歩上ってみる。屋上のドアを開け、視界が開ける。坂口は、この光景をどんな気分で毎日眺めていたのだろう。どんな気分で車で、足で、ここに上り、どんな気分で降りて行ったのか。もうその時から死を考えていたのだろうか。ここの1m50cmの壁を、どんな気持ちで見つめていたのだろうか。
 坂口の挫折だらけの人生──大学を中退し、仕事も長続きせず、一度ドロップアウトしてしまえば二度と這い上がることができない──を思えば、毎朝、毎晩、ここで葛藤していたのかもしれないと思う。消えてなくなってしまいたい気持ちと、それでも生きて行かなければならないという気持ち、あるいは義務感とのぶつかり合いを、常に経験していたのかもしれない。そして毎朝、毎晩、自制心が勝ち続けてきた。その自制心が崩れるきっかけは何だったのか、今はもう知る由もない。
 坂口にとって、日々を生きるとはどういう意味を持っていたのか。日々を生きることの辛さとはどれほどのものだったのか。これ以上日々を重ねることはできないと思ったとき、坂口にはこの世界がどう見えたのか。それももう、知る由はない。


 K警察署では、あの小太りの刑事が、坂口裕行のnoteとスマートフォンの通信記録を綴り込んでいた。長く大きな溜め息をつくと、湯呑みに手を伸ばした。茶はすっかり冷めきっていたが、一息に飲み干した。
「告白、ねえ……」
 そういうと、刑事は湯呑みを手に席を立った。


〈終〉


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