すずめの木

 私の実家は国道っぷちにある。したがってビッグモーターよろしく家の前には街路樹がある。

 プラタナスの木だ。

 このプラタナスは家の前の電線を脅かすほどに枝を伸ばし、葉を繁らせているが、開発局は枝を払いに来たり来なかったりするらしい。今年はまだ枝は払われていなかった。

 今年の9月、シーズン最後の焼肉を車庫でやろうと、実家に帰ったときのことだ。
 家の前のプラタナスは、「すずめの木」になっていた。街でよく見かける、すずめが鈴なりに群がっている木のように、おびただしい数のすずめが、かまびすしい鳴き声を周囲に響かせて、木から一斉に飛び立ってみたり、三々五々戻ってきてみたりしている。

 プラタナスの葉が繁りすぎて、中はよく見えない。一体何羽のすずめがいるものか、想像もつかない。

 すずめの木はさておき、ビール片手に塩ホルモンをつつく。やはり△△ジンギスカンの塩ホルモンはうまい。ビールがどんどん消えていく。夕日が西に傾いて、あたりが薄暗くなってきたそのときだ。

 さっきまであれほどかまびすしかったすずめの木が、ひっそりと静まり返っている。
「すずめ、どっか行ったんだべか?」
 そう聞くと母は言った。
「蹴ってみれば?」
 よわい七十になんなんとする老女の言とはおよそ思われないが、母は『ポツンと一軒家』に出てきそうな山奥の集落出身の野生児だ。とりあえずの選択が「蹴ってみる」なのだ。

 よし、とばかりにプラタナスの木に近づくのは、80キロの巨体を揺らす46歳の中年男性だ。ととと、と助走をつけてプラタナスに飛び蹴りを食らわす。よく思い出していただきたいがここは国道っぷちだ。何十台と車が行き来する幹線道路の脇で、プラタナスに飛び蹴りを食らわす太った中年男性を思い浮かべるとよい。ドライブレコーダーでその一部始終を撮られ、SNSにでもアップされれば、たちまちバズること請け合いだ。

 さて、プラタナスに話を戻そう。飛び蹴りを食らわしたプラタナスは意外と丈夫で、多少揺れたりもするかと思ったがビクともしない。そしてすずめの木には、何の変化もない。すずめが一斉に飛び立つようなシーンを想像していた私としては、いささか期待外れに終わったようだった。

 しかし、一瞬、ガサガサという物音が聞こえた気がした。
 枝葉が生い繁ったプラタナスの中心部の闇は深い。ほとんど何も見えないようだが、夕方の弱い光に透かされて、何かが動いたように見えた気がした。

 もう一丁、とばかりに再び助走の態勢に入る中年男性。80キロの巨体は、運が悪ければ自らの足首を砕くくらいわけもないことだろう。着地に失敗すれば何が起こるかわかったものではない。自分が勤める病院に救急搬送され、病休明けには「プラタナスさん」と呼ばれることは必定であるのに、プラタナスへの飛び蹴りに中年男性を駆り立てたもの、そう、それがアルコールの力だ。

 どすん、と鈍い音を立てるプラタナス。その繁みの奥で、確かに何かがバサバサと、上を下へとまではいかないが、動き回っている。

 それはそうだ。これはすずめの木であり、すずめのねぐらなのだ。夜にチュンチュンと鳴くすずめがいないように、静かにすずめたちは眠りにつこうとしていただけだった。

 眠りにつこうとしているところに飛び蹴りを食らわされ、さぞびっくりしたことだろうと思うが、こちらが驚くのはすずめがプラタナスの繁みから少しも飛び出すこともなく、チュンの一鳴きさえしないことだった。

 直接巣を襲われでもしない限り、日が暮れたら何があってもすずめの木を一歩も飛び出さず、鳴き声ひとつあげない──そういう野生の本能が備わっているのだ。

 簡単に「野生の本能」と言ったが、その習性はまさしく本能として自然に備わるものなのか、それとも親から子へと伝えられるものなのか。想像してみるとなかなか面白いではないか。

 すずめたちは、その鳴き声でどんな会話をしているのか。どうやってすずめの木の中で、「社会」を作り上げているのか。

 たまにはそんなことに思いを馳せてみよう。あの小鳥たちが、いっそう愛おしく思えるはずだから。

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