胆振東部地震から5年~あの時起きたこと

 今年は早いもので胆振東部地震から5年だそうだ。離島を除く北海道の全域が停電、ブラックアウトしたあの地震のときに、経験したことを記録しておきたいと思う。

発震

 地震が起きたのは、2018年9月6日、午前3時7分59秒のことだ。私の住んでいる町では震度3の揺れを観測している。私の町は地盤が堅く、周囲の町より震度が小さいことが多く、隣町では震度4を記録している。ちなみに東日本大震災のときが震度2だから、おそらくこの町で近年記録した中では最大の揺れを観測した地震ではないだろうか(とか何とか言っておきながら、気象庁のサイトで検索してみたところ、東日本大震災と胆振東部地震の間に、2013年2月2日の十勝沖、2016年1月14日の浦河沖でも震度3を記録していた。人の記憶などアテにならないものだ)。
 我が家では地震が起きると真っ先にテレビをつけ、チャンネルをNHKに合わせ、パソコンの電源をつける。気象庁のサイトにアクセスするためだ。
 当時の私の職場は4つ隣の町にある、民家を改造した老人向けデイサービスだった。ちょうどそのとき、実習生を迎え、2階に寝泊まりさせていたところだったので(その2階は地震があるとひどく揺れた)、社長にすぐ電話をすると、実習生君は無事であるらしい。
 気象庁の地震情報を見たとき、震源近くの厚真、むかわ、安平の辺りは、阪神淡路大震災のときと同様、震度の入電がまだだったような記憶があり、「これは大変なことになった」と思ったものだ。

ブラックアウト

 Wikipediaによると、一部で地震直後に発生した停電が、道内全域に広がったのは地震から18分後のことであるらしい。私の記憶でも、気象庁のサイトにアクセスし、地震情報を見ていたことからしても、我が家での停電も地震から18分後ころとみて間違いない。ちなみに、停電の原因には急激な電力需要の高まりがあると見られており、間違いなく私はその一因となったわけだ。
 しかし、このときはあくまでも局地的な停電だと思っており、すぐに復旧するだろうと思って、また寝て朝を待つことにした。
 ところが朝になってもテレビもパソコンも電源は入らず、どうやらこれは長引きそうだ、ということになった。私は、「電力が復旧するまで冷蔵庫・冷凍庫の扉は開けないこと」と宣言した。
 このころの情報源はツイッターだったが、過去に何度もデマが流されているから、ほとんど信用はしていなかったし、電池切れが怖いということでスマホにはほとんど触らなかった。
 ガスは都市ガスではなくプロパンガスだから、火はつけられたし、水も配水池にくみ上げて高低差で給水する方式だったから、断水もなかった(ただし、もう少し停電が長引けば危なかったらしい)。
 職場からは、今日は食事も作れず、風呂も沸かせないからということで、早々に休みの連絡が入った。妻は役場勤務だったので通常どおり出かけて行った。
 急遽降ってわいたような休暇だったので、普段できないことをしようと思いたち、家の周りの草刈りを始めた。ところがこの日は、天気がよく、10時には気温が25度を超えた。暑くて汗をかいたが、まだ風呂に入れないこと(翌日までに入れるようになるとは限らないこと)、飲み物の入った冷蔵庫は開けられないことに思いが至り、草刈りも中断した。
 午後からは、重要な施設(役所や警察・消防、病院など)がある回線が優先的に復旧され、町内でも道道沿いは電気が復旧したという話だった。職場でも、午後には電気が復旧し、明日の営業は再開するということになったらしい。
 我が家では電気は復旧せず、不貞寝を決め込んだ。手回し式ラジオはあるにはあったが、ほとんど電池が持たなかった。
 晩は、ヘッドランプを引っ張り出してきて使用したのだが、晩ご飯に何を食べたかは覚えていない。ただ、ヘッドランプは単3電池で点灯できるのがよかった(単3、単4の充電池が割と多くあった)。
 あとはラジオで聴いたとおり、ヘッドランプをテーブルの上に置き、水のペットボトルを置いて明かり代わりにした。ただ、これだとどうにも光が天井に抜けてしまい明るくならない。チンダル現象を起こすのに牛乳が欲しいが冷蔵庫の中だ。ビニール袋をかぶせてみたがあまり効果はなかった。


翌朝~夕方

 翌朝を迎えたが電気は復旧しておらず、仕方なくガスでお湯を沸かし、それでシャワーを浴びることにした。片手鍋にいっぱいの湯を沸かして、頭を洗い、ひげを剃ったところまでは良かったが、さすがに全身を洗いきることはできず、結局冷たいシャワーで泡を流すことになってしまった。非常時なので清拭程度にとどめておくべきだったか。
 職場へと向かう道の信号機は復旧がまだで、そこそこ大きな交差点にも臨時の「止まれ」の標識が設置され、警官による交通整理は行われていなかった気がする。
 職場に着いてみると、介護職員のTさんの姿がない。どうしたのと聞くと、Tさんの家はまだ停電中で、そろそろ冷蔵庫・冷凍庫の中身がヤバくなってきたから、それを一日かけて処分するから今日はお休みと……。ウチもそうなのですが何か問題でも。
 利用者の家でも結構電気が復旧しているところが多いらしく、まだ停電の我が家は少数派だった。われわれの住む地方では停電くらいしか被害がなかったので、皆すでに「過去のこと」「対岸の火事」として地震を語っている。その中で、現在進行形の被災者がぽつんと取り残されているのは精神的に「来る」ものがある。被災者の精神的ケアというと大げさだが、被災の程度などが人それぞれであることは、留意しなければならないことだと思った。
 テレビから流れる、土砂崩れや液状化の映像は、ツイッターで既に目にしていたが、ここにきて初めてデマや過去の画像の使い回しでないことを知った。あまりの被害の大きさに心底驚いた。
 また、このころ、電気が復旧していない自治体の中に我が町の名前が入っていなかったことに危機感を覚えた。まさか、北電さん、我が町がまだ停電しているのを把握していない……? まさかそんなことはないのだが、非常時というのはちょっとしたことでも大きく考えがちになるのかもしれない。
 そして利用者さんたちが帰る頃、つまり夕方になって、社長の奥さん(なかなかのパワハラ気質がある人)が「水の入ったペットボトルを冷凍庫で凍らして、お宅の冷蔵庫を冷やしたらどうですか?」とニヤニヤしながら言ってきた。……今から冷やして終業までに凍るわけがないじゃん。なぜ今言う。今日は1分でも早く帰るよ。今日も夜中までサービス残業すると思ってるのか。あの時の人をバカにしくさった表情は、生涯忘れることはないだろう。

帰り道

 職場からの帰り道では、コンビニやドラッグストアに寄った。とりあえずヘッドランプの上に乗せるペットボトルだが、白濁しているスポーツドリンクがよかろうと思ってコンビニで買い求めた。コンビニでは、水やお茶、カップラーメンなどが品切れを起こしていたが、不思議とスポーツドリンクやお酒などはあまり売れていなかった様子だった。
 ドラッグストアでは、電池などを買った。単1、単2は懐中電灯などに入れるためだろう、ほとんどが売り切れていたが、単3、単4は通常どおりの品ぞろえだったので、とりあえず数日は持つくらい買っておいた。セロテープも買った。コインを束ねてランプやペットボトルの土台にすることを考えていた。
 自宅に戻ると妻が料理をしていた。さすがに冷蔵庫・冷凍庫の中身が心配なので、冷蔵庫の中身を料理してしまうということだった。やはりヘッドランプは両手が使えるのがいいということだった。
 暗闇の中、ヘッドランプにスポーツドリンクのペットボトルを載せ、夕食を摂ったが、やはりスポーツドリンクのほうが周囲が明るくなってよい。役に立たなそうな勉強や知識が、こういうとき快適な暮らしをもたらしてくれる、ということは声を大にして言っておきたい。工夫次第で快適にできる被災生活というものが、不謹慎かもしれないが楽しくなってきたと感じたのは事実だ。

実家へ

 実家に連絡を取ると、実家は消防の分署が近いこともあって電気の復旧も早く、通常どおりの生活に戻っているとのこと。そこで、風呂を借りることにした。風呂道具を持って自宅を出、隣町のT市に入ると、暗闇が広がっていたが、実家のあるその隣町K市に近づくと徐々に明かりが戻ってきていた。
 実家のある町に出ると、国道沿いということもありいつもの光景に戻ったようだった。
 実家に着いて風呂を借り、しっかり体を洗うことができた。風呂に入れなかったのがたった1日とはいえ、風呂に入れてホッとしたのを覚えている。これが何日も続くと思うと、よりシビアな災害に被災された方の苦労がわかるというものだ。

復旧

 電気が戻って快適な実家でしばらく過ごさせてもらい、もし電気が戻らないようなら明日も風呂を借りに来るねと約束して帰宅することになった。
 車を走らせていくと、先ほどまで暗かったT市の我が家側のあたりの信号や街並みにも灯がともっていた。
 「もしかしたら電力が復旧してるかも」と心を躍らせ、家に帰って、通電火災の予防のため落としていたブレーカーを上げてみると、確かに家中の電気がついた。
 これでもう大丈夫だ。私たち夫婦の被災生活は、丸二日になろうとしたところで終わりを告げた。工夫次第で快適さを得られるようになっていた被災生活との別れが寂しいようでもあったが、やはり元どおりの生活に戻ったほうがいいに決まっている。
 この約2日間、大きな損害もなく、無事に過ごせたことは一つの自信にもなったし、この頃はまだその存在さえも知らなかった新型コロナウイルス感染症での巣ごもり生活にも役立つことになった、と思いたい。


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