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あきらめないで今日1日を生きていこう

こんにちは。

2022年11月27日(日)の礼拝メッセージを公開します。

聖書
エレミヤ書33章14〜16節
ヤコブの手紙5章1〜11節
ルカによる福音書21章25〜36節

 おはようございます。今日からアドベントが始まりました。救い主が与えられるという神さまの約束がついに果たされたことを祝うクリスマスを待ち望み、そのための準備をする期間です。今日の説教題は「あきらめないで今日1日を生きていこう」としました。これは副題でして、主題は「恵みの約束」です。ただ掲示板に「恵みの約束」と貼ってあっても通行人には何のことかわかりませんし主題副題両方を入れると長くなるので副題のみを掲げました。

 いまの社会情勢を鑑みますとこの先どうなってしまうのだろうという不安や閉塞感、希望を見出せない何とも重たい空気が支配しています。今年の2月24日から開始されたロシアによるウクライナへの侵略戦争は続いており、いまだに終わる兆しが見えてきません。子ども、女性、高齢者など多くの非戦闘員が犠牲となり多くの難民が生まれています。また世界中がこの戦争の影響を受け、日本でも円安が進み物価が急上昇して私たちの生活を苦しめています。さらに私たちは政治不信も抱えており、この後に及んでなお国民への増税を強いて防衛費という名の軍事費の増額を推し進めようとする政府の方針に怒りを通り越してあきらめすら覚えてしまうこの頃です。そんな状況にあって私たちは信仰により聖書を通して語られる神の言葉に心を向けて「先のことは必ずしも分からないけれどあきらめないで今日1日を生きていこう」という気持ちを共有できればと願っています。

 旧約聖書のエレミヤ書を通して私たちの神がいま語りかけています。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。」新しい翻訳聖書だとこの部分がより端的にはっきりと意味が伝わるようにこう変更されていました。「その日が来る----主の仰せ。私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす。」「その日が来る----主の仰せ。私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす。」いいですね。どれだけ明日に希望が持てない状況でも神の恵みによって「その日が来る」のです。私たち人間の努力や行動によるのではなく愛の神が働いてくださり、恵みの約束が果たされる日が来るという神の宣言です。

 本日の説教を準備するにあたってエレミヤ書を読み気付かされたことがあります。それはエレミヤが私たち人間の努力や行動、頑張り以前にある神の恵みと愛を徹底して語っているということです。聖書には私たちに生き方や行動を勧める箇所ももちろんありますが、それよりも聖書が私たちに心を向けてほしいのは私たちの生き方や行動のはるか前から存在する神さまの愛と恵みなのです。新約聖書・ローマの信徒への手紙の5章6〜8節にこういう言葉があります。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ人はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」私たちがまだ罪人であったとき、すなわちイエスに倣って生き、神に従って歩む前から私たちには神の愛が注がれています。そのことがイエスの十字架によって誰の目にもはっきりと示されたのだと告げるとても大切なみ言葉です。

 エレミヤ書に登場する預言者エレミヤが活動したのは自分の国が滅ぼされ、そこに住む人びとが故郷を離れて敵国の都に強制連行される出来事の前後です。エレミヤは国民が自分たちの神さまを礼拝せず他の神々を礼拝する過ちを犯しているため汚れていると批判し、自分たちの神に立ち帰れと何度も何度も語ります。しかし王さまも高官たちも祭司たちもエレミヤの言葉に耳を傾けることはありません。今から引用するエレミヤ書の2つの箇所には非常に重たい言葉が記されています。まずは6章10節「誰に向かって語り、警告すれば/聞き入れるのだろうか。見よ、彼らの耳は無割礼で/耳を傾けることができない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。」続けて13章23節「クシュ人は皮膚を/豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも/正しい者となりえよう。」非常に重い言葉です。あなたたちはせっかく神さまが語りかけても耳を傾けようとせずそれを侮り、受け入れようとしないのだと語られています。またクシュ人とは北アフリカの人たちを指しており現代の視点で見ると聖書にある差別表現として退けられるべきですが、この箇所は要するにクシュ人たちがその黒い肌の色を変えることができるか。豹はまだらの皮を変えられるか。そんな不可能が可能となるのであれば、悪に馴らされたお前たちも正しい者となりえよう。でもそれが不可能であるようにお前たちが悪から正しい者に変わることはないと断言されているのです。

 エレミヤのように預言者が遣わされ、神の言葉が告げられても人びとは悪に馴らされているためにその言葉に耳を傾けて神に立ち帰ることができません。政治が腐敗して貧困者が喘ぎ、不正と不公平がはびこっている状況になっているのに、それでもなお権力者や国や政治は変われないのです。エレミヤ書は何千年も前の書物ですがまるで今の日本の状況を語っているかのようです。人びとはエレミヤが語る滅亡の預言が次々と成就していく現実を目にしました。神の言葉を聞きながらもどうすることもできず、無力感を味わいながらこの書を紡いだ人たちの心境が伝わってきます。そしてそれは同時に戦争やコロナ禍によって不正義や不平等、格差、貧困がこれだけあらわになっているにもかかわらず、なお私たちの生きるこの国の政治が自分とそのお仲間たちを最優先して行われている様を無力に眺めているしかない私たちの心境とも重なってきます。ユダ王国の人びとはこの後滅亡と強制連行という破局を迎えるわけですが、いざ破局を迎えてこれまでの歩みが失敗だったのだと分かれば人や国や政治は過去を反省し軌道修正して正しい道に立ち帰っていくことができるのでしょうか。エレミヤは理想ではなく徹底的に現実に立ちそんなことはないと告げます。たとえ国が滅び人びとが強制連行されても人間が自分の力で過去の過ちを反省することはできないという現実を告げるのです。

 でも自力で反省することができないのなら、私たちは知らず知らずに誤った道を歩んでしまった時にどうやってそこから軌道修正して正しい道に戻っていくことができるというのでしょう。私たちの神はエレミヤ書を通してこのように語られています。24章6節以下「彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。<中略>そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。」私たちの努力や行動によるのではなく神さまが人間に恵みを与え、神を知る心を与えられるから正しい道も帰ることができると語られており、神がこの恵みの約束を果たす日が来ると語られているのが本日の箇所です。そしてこの恵みの約束は救い主イエスの誕生によって果たされます。神の恵みとして与えられる救い主イエスによって私たちは誤った道から立ち返り、正しい道、命の道へと戻ることができるのです。

 神さまの恵みの約束が成就したことを祝うのがクリスマスです。私たちは今日からこのクリスマスを待ち望み、心の準備をする期間を過ごします。悲惨な現実を生きているにもかかわらず現実を変えることのできない無力な私たちを救うイエス・キリストが与えられるという恵みの約束が成就し、イエスによって私たちは根本から変えられ新しくされます。どんな悲惨な状況にあっても神の恵みとして与えられる救い主イエスによって私たちは愛と慈しみに富む道、正義と公平の道に戻れるのだという希望と確信を持ちたいと思います。「その日が来る----主の仰せ。私は、イスラエルの家とユダの家に語った恵みの約束を果たす。」この神の言葉に支えられて、あきらめずに今日という1日1日を共に生きて参りたいと願います。

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