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「たとえ私が弱くても」

こんにちは。2022年12月18日(日)に四街道教会の日曜礼拝で話した説教原稿を公開いたします。聖書朗読箇所は以下の通りです。

旧約聖書:イザヤ書11章1〜10節
新約聖書:コリントの信徒への手紙一1章26〜31節
福音書;ルカによる福音書1章26〜38節「たとえ私が弱くても」

本文:

・辛い現実をギリギリのところで生き残る
 10年以上前の話ですがある青年から自分がどうしてクリスチャンになったのかという話を伺い、「主われを愛す」という賛美歌が自分を支えてくれたと聞いたのを覚えています。「主われを愛す、主が強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」口語だと「愛の主イエスは小さいものをいつも愛して守る方です。聖書は言う、イエスさまは愛されます。このわたしを。」という歌詞です。
 その青年はある時に自分の弱さや小ささを痛感する出来事があり自分自身のことが嫌になってしまったそうです。「こんな自分じゃダメだ。もっと強く変わらないといけない。」そんな思いを持ちつつもこれまでとは違ってどうしても克服できない自分に自信を失くし、生きていくことも辛くなったと言います。誰にでもそういう時期があるのではないでしょうか。私自身を振り返ってみても子どもがもっと小さかった時の育児が息子の病気ゆえの骨折・入院も相まってすごくしんどくて、自分の努力や忍耐では乗り越えられないことに自信を失くしてなんとも重たい気持ちを抱えていたことを思い出します。いま振り返ればたくさんの人に支えられ神さまの助けが十分にあったと思えますけど当時はそんなこと思えませんでした。思えないというのが偽らざる思いです。
 そしてそれは私だけに限らず聖書に登場する人たちも同じだと感じます。旧約聖書の出エジプト記を読むとエジプトから脱出して荒れ野を彷徨った40年間、人びとは神さまの支えによって生かされているという思いよりも不満に満たされていました。彼らは荒れ野の40年を経てようやくパレスティナに入植して生活が安定するとそこで初めて過去を振り返ることができ、大変な生活の中でも神の守りがあったことに気づいて感謝できたのです。多くの人にとって苦難の渦中でいつも感謝し喜ぶことは難しいことです。人は危機を脱した時、安定した生活に入った時にようやく過去を振り返る余裕を持つのです。
 青年は挫折や自己嫌悪を味わい人生の中で最も辛く苦しい時期に教会との出会いがあり、その出会いによって一気に、ではなく徐々に自信喪失状態から回復していきました。回復への道すがら、辛い時に話を聞いてくれた教会の友人が電話越しに歌ってくれた「主われを愛す」が自分を支えてくれたと言います。「自分が強くなれず弱いままでもイエスさまが愛してくださるから大丈夫なのだと思えるようになり心が癒やされた」と言います。やがて青年はイエスを救い主であると告白して洗礼を受け、クリスチャンとしての人生をスタートさせました。

・神さまに愛され、祝福されているのはどんな人?
 いよいよ来週はクリスマスです。救い主イエス・キリストの誕生を記念して祝う時です。「愛の主イエスは小さいものをいつも愛して守る方です」と歌われるように、神の子イエスさまは小さいもの/弱いものをいつも愛され、祝福してくださいます。そのことを今日の礼拝を通して私たちに与えられている良い知らせとして受け取りたいと願います。
 というのも古今東西問わず人間の脳みそが考えることは共通点が多く、私たちは立派な地位を得ていて財産もある、子宝にも恵まれて世継ぎの心配もないみたいな人を神さまから愛され祝福された人だと考えてしまうからです。神さまに愛され祝福されることと実際の世の中でプラスの何かを得ている人とを結び付けたくなるのです。でもそのような人間の考えは正しいのか、神は今日私たちに問うています。
 今日朗読された3つの聖書箇所は私たちの常識や固定観念に挑戦しています。コリントの信徒への手紙一は神が選んだ人間は人間的に知恵のある者や能力のある者、家柄のよい者が多かったわけではなく、無学な者や無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者が多かったと記します。そしてそれは誰も自分自身を誇ることがないようにという意図があったとも言っています。当時の世界では知恵や富、才能、能力がありさらに子宝に恵まれているのは神さまに愛され祝福されていることの証拠であると考え、自分は神の前に清く正しく生きているから神は愛と祝福を与えてくださるのだと誇っていた現実があったのでしょう。またそれだけでなく知恵や富、才能、能力がなく病気の人たちを差別し、彼らがそのような状態なのは神さまの前に悪いことをして生きているからであり、神さまの愛と祝福の代わりに裁きを受けているとも考えていました。自分が貧しいことや能力や才能に恵まれないこと、病気があること、不意の不幸に見舞われたこと、子宝に恵まれないことなどすべてが自業自得で片付けられてしまうのですから当事者にはとても生きづらい世の中でした。

・救い主イエス・キリストの誕生したところ
 しかしそんな世界に救い主が誕生します。イザヤ書には救い主は神を畏れ敬う霊に満たされ、弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する方だと記されています。弱い人、貧しい人は神の目に悪く生きてきたのだから自業自得だという世の人の常識に抗い正当で公平をもたらすため、すなわち弱く貧しい者の救い主として世に来るのです。聖書はそのような救い主として世に生まれたのがイエスだったと伝えています。ルカによる福音書は天使がマリアにイエスを身籠ったことを告げる場面が読まれました。天使はマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方」(28節)「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(31〜33節)
 天使の言葉を聞くとイエスがいかに特別な存在であり、神さまの愛と祝福を受けてこの世に生まれてくるのかが分かります。一方でイエスが生まれる周辺に目を向けてみると、本当にそうだと言えるのか疑問に思えるところがあります。例えば救い主はイスラエルの伝説的な王であるダビデの家系から生まれると信じられていました。イザヤ書にあった「エッサイ」はダビデの父の名でエッサイの株とか根とはその子孫を意味します。マリアはヨセフのいいなずけでした。ヨセフはダビデ家であると記されていますが彼は王さまの一族ではなくナザレに住む人です。ナザレとは田舎の漁師町でありヨセフはそこで大工として生計を立てていました。彼は貧しく、教養も地位も高いとは言えない人物です。聖書はエッサイの株と言っても身分が高く教養豊かでリッチな家からではなく、ナザレのヨセフとそのいいなづけであるマリアのもとに救い主が生まれたのだと記します。
 神さまの子ども、救い主がそのような場所から生まれたのですから、貧しさや愚かさ、弱さ、病いは神から来る裁きでは決してありません。むしろイエスさまは「小さいものをいつも愛して守るかた」です。弱く小さい私の救い主、私たちの救い主を待ち望む1週間を過ごしましょう。

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