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「“傷”は無くならないけれど、喜べる」

この原稿は2024年4月7日(日)十日町教会の日曜礼拝における説教原稿です。画像は礼拝の時に教会の方が持って来てくださったたくさんのふきのとうです。春の訪れと喜びを感じますね♪


⑴聖書:ヨハネによる福音書 20章19〜31節

日本聖書協会のホームページの「聖書本文検索」から当該の聖書箇所を読むことができます。以下のリンクをクリックしてください。

https://www.bible.or.jp/read/vers_search.html  日本聖書協会

⑵牧会祈祷

 主なる神さま、私たちに新しい命を与えてくださり、礼拝へと招いてくださったことを感謝いたします。いま捧げている礼拝があなたに喜ばれるものとなり、礼拝の賛美や祈り、み言葉を通してあなたが私たちを励まし、支え、慰め、いやしてくださりますよう目には見えない聖霊のお働きを祈ります。

 十日町幼児園と山本愛泉保育園のために祈ります。先週それぞれの園で入園式が行われました。新入園児がその子らしくのびのびいきいきと過ごすことができ、神さまに愛されて造られた一つ一つの命が豊かに育まれますように。それぞれの園で働く職員、そしてこどもたちを送り出す家庭の上に神さまのお支えをお願いいたします。

 神さま、新年度が始まり思いを新たにしてそれぞれの生活が始まりました。心はやるもの、落ち込んでいるもの、ワクワクしているもの、不安なもの、みなそれぞれの思いを抱えています。どうかあなたが一人一人に寄り添ってくだいますように。また体調不良のため、家族の介護のため、仕事のため、心が教会に向かないため、様々な事情でこの場に集うことのできない一人一人を覚えて祈ります。神さま、あなたが一人一人と共にいてください。私たちがキリストの体である教会としていつも体の一部を覚えて祈れるようお支えください。

 神さま、先週水曜日に台湾で大きな地震が起き、大きな被害が出ています。どうか神さま、助かる命が一つでも多くなるようあなたがお助けください。被災者一人一人の不安な思いに寄り添ってください。特にこどもたち、小さな子どもを抱えた保護者、高齢者、病気のもの、台湾に住み言語の問題で不自由を感じている外国人に必要な支援の手がいち早く届けられますように。災害支援に携わる人たちの安全をお守りください。また年明けに発生した能登半島地震の復興・復旧作業が遅々として進んでいない地域があります。神さまどうか政治を委ねられた人々が自らの職務を忠実に果たせるよう導いてください。

 言い尽くしえませぬこれらの祈りをここにいる一人一人の心の祈りと合わせ、イエス・キリストによって祈ります。アーメン

⑶説教本文:

 皆さん、おはようございます。月曜日から新年度がスタートしました。イースターの喜びから始まったこの1週間は皆さんにとって早く感じたでしょうか。それとも遅く感じた、やっと日曜日と思ったでしょうか。私を含めた私たち家族にとっては皆さんお察しの通りかと思いますが「あっという間に1週間が過ぎた」というのが正直な思いです。週報の牧師室よりにも書きましたが園長という慣れない仕事を優しい職員の皆さんに助けていただきながら必死にやっています。忙しいながらも充実した毎日を過ごしています。皆さんには新生活を始めた私たち家族が体調を崩さないようお祈りいただけるとうれしいです。

 イエスが復活した日、朝早くにペトロたちはイエスの遺体を置いたお墓が空であった様子を見、マグダラのマリアは復活のイエスに会って自分の見たことを告げるという働きのために弟子たちのところへと派遣されていき、「わたしは主を見ました」と告げ、イエスから言われたことを伝えました。今日の場面ではマリアから復活のイエスに会ったということを聞いた弟子たちの様子が記されています。先ほどの聖書朗読で弟子たちの様子を聞いて、皆さんはどう思ったでしょうか。「あれ?せっかくマリアからイエスが復活したことを聞いたのに喜んでないな、どうしてだろう」と思われた方もいるかもしれません。19節には「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。どうしてなのでしょうね。この当時は女性蔑視の時代でしたから、女性であるマリアのいうことなんて信頼に値しないと思っていたのでしょうか。でも弟子たちは先週の場面で女性たちからお墓が空だったという知らせを聞いてすぐにお墓に駆け出していますから女性蔑視の考えがあったということではなさそうです。

 想像できるのはそれだけ死者の復活ということが信じられない驚きの出来事だということではないでしょうか。私たちもこの間亡くなった方についてある方から「さっき復活してその辺歩いているの見たよ」と言われてもまず信じられません。お墓が空であるということは弟子たちも現場に行って確認しましたから了解しています。しかしイエスが死者の中から復活してマリアの前に現れたというのはいくら本人がそう言っていたとしても自分の目で確かめるまで信じることができないというのが彼らの心境だったのでしょう。彼らの心の中を占めているのはイエスが復活したかではなくイエスを十字架につけて殺したユダヤ人のことでした。「彼らがイエスを殺すだけに飽き足らず、自分たちのことも逮捕して殺そうとするかもしれない。」そんな不安を感じていたため、弟子たちは自分たちのいる家の戸に鍵をかけて震えながら過ごしていたのです。

 すると突然、驚くべきことが起きます。イエスが弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」とあいさつしたというのです。「あなたがたに平和があるように」。この言葉は福音書ではギリシア語で書かれていますが、おそらくイエスはアラム語で「シャローム」というあいさつの言葉を言ったのだと思います。家の戸の鍵を閉めていたのになぜか自分たちの真ん中に立っていた人物がいて、その人があいさつしてくるというのは言葉にならない驚きの出来事ですが、そう言いながらイエスは自分の手とわき腹とをお見せになります。

さあクイズです。手とわき腹には何があったでしょう。

⑴傷跡があった。

⑵手の爪にはネイル、わき腹には腹巻きが巻いてあった。

 正解は⑴です。この出来事の後でお弟子さんの一人トマスがこう言っていますね。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」十字架で殺されたイエスの手には十字架につけられた際の釘跡、わき腹は槍で突かれた傷跡が生々しく残されていたのでしょう。ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちはイエスの体についた生々しい傷跡を見てこの人がイエスであることが分かり、喜びに溢れました。

 皆さんは最近喜んだ経験はありますか?どんなことに喜んだでしょうか。こちらに来る前に千葉の教会でお世話になった方々に送別会を持っていただき、そこで長く北海道の教会にいらした方から「雪国の冬は厳しいけどその分春の喜びはひとしおですよ」と言われたのを思い出します。先週幼児園の園庭のフェンス取り付け工事が行われましたが、この時期で園庭の雪がないというのはめずらしいみたいですね。野山にはタラの芽やふきのとうなど春の山菜が顔を出し、私たちはそれらを食べることができます。特に旬の食べ物を食べるのが好きな私にとって十日町の厳しい冬はまだ経験しておりませんが、春の喜びを経験しております。私たちは様々な場面で喜びを感じることがありますが、弟子たちが復活のイエスの体についた傷跡を見て喜んだ様子を見ると喜びっていうのは万難が排された時だけに感じるものではないのだということをしみじみと感じさせられます。

 人は傷が完全に癒やされ、傷跡が完全に無くならないと喜ぶことのできない生き物ではありません。体の傷、心の傷は完全に癒えていなくても、傷跡として残っていたとしても、私たちは喜びを感じることができるのです。このことを今日私たちに届けられた良い知らせ、イエス・キリストの福音として受け取りたいと思います。私の心にはいま大きな傷があります。一昨年の11月に大学時代の親友の一人を亡くしたという傷です。とても明るいムードメーカー的存在でしたが、大学時代に体調を崩してうつ病を患い休学を経験しました。復学、卒業を経て病気を理解してくれる会社に出会って就職し、結婚、2人の子どもに恵まれるなど側から見たら幸せにいっぱい、今風の言葉で言えば「リア充」の生活を送っていました。時折体調を崩して休職して復職ということを繰り返していましたが、そういったことをよく理解してくれる会社でしたので彼は病気とうまく付き合いながら生きていけると思っていました。それが突然、本当に突然の知らせでした。その日私はコロナにかかって高熱とかつて経験したことのない喉の痛みに苦しんでいましたが、相次いで親友から電話がかかって来てただ事ではないことを察して電話を取ると、彼が亡くなったというのです。目の前がグラグラになりました。「嘘だろ」という思いと私も牧師として同じようなケースを経験しておりましたので、「この時が来てしまったか」という思いを持ちました。

 キリスト者であり精神科医として放送大学の教授として教えておられる石丸昌彦さんという方がいます。その方が「こころの病と信仰との関係」(『自死遺族支援と自殺予防』日本キリスト教団出版局、2015年)という文章の中でこのような説明をされています。

「うつ病の患者には自殺願望がある」といった表現をよく見聞きするのですが、これは適切な言い方ではありません。願望とは人が本心から「そうしたい」「そうなりたい」と望むことでしょう。うつ病患者はそのような意味で「死にたい」のではありません。自分でも避けたいと思いながら、いつのまにか「死」のことが頭から離れなくなり、考えまいとしても考えずにはいられなくなる、願望というよりも強迫観念に近いものです。<中略>「自殺願望」という言葉は精神医学の正式な用語にはありません。そのかわり、………「希死念慮」という言葉が使われており、その趣旨は前述の通りです。死に引き寄せられるのは病気の症状であって、その人本来の願望ではないのです。(石丸昌彦「こころの病と信仰との関係」(『自死遺族支援と自殺予防』日本キリスト教団出版局、2015年、36〜37ページ)

 自死は病気が引き起こすものであって願望ではありません。誰も急な心筋梗塞や脳梗塞、がんなどで亡くなった人に対してそのような願望があったと言わないのと同じです。しかし世間一般の誤解と偏見が病気を抱える人、またその家族を苦しめている現実があります。私たちはこの病気に対する正しい理解を持ちたいと願います。自死予防は大切で必要な事柄ですが、家族や精神科医、カウンセラーなどによって適切なサポートと治療を受けていても「希死念慮」に深く蝕まれて命を奪われている人がいる、そういう私たちにはどうすることもできない現実があるという人間の限界も私たちは受け止めなければなりません。

 私は親友を亡くすという大きな傷を負うこととなりました。最期の見送りに行きたかったのですがコロナでしたから行くことができず、翌月にお休みをいただいて千葉から兵庫に移動し親友たちと共に彼の実家に行ってご両親を訪問してきました。また去年の彼の命日にも再び彼の実家とお墓に行って記念の時を持ちました。親友たちと酒を飲みながら時折涙を流す私たちでしたが、私だけでなく他2人のお連れ合いのお腹に新しい命が宿っていることが分かり、その知らせを聞いた時にはみんなそれぞれ喜びに包まれました。親友の命日に集まって涙を流しながらも喜ぶことができる。傷は癒やされていないし傷跡も残ったままだけど、人は悲しみに支配されて生きていくのではなく喜びも感じて生きていくことができるのだと教えられました。復活のイエスの体には生々しい傷跡が残っています。けれど弟子たちは恐れや悲しみではなく喜びに包まれました。私たちも体と心に傷を負うことがあります。もしかしたらその傷は一生消えないかもしれませんが、痛い、苦しい、悲しいことだけでなく神さまは厳しい冬の後に訪れる春の喜びのような格別な喜び、悲しみや恐れという分厚い殻を打ち破る喜びをも私たちの人生に備えてくださり、私たちをなおも生かそうとしてくださいます。感謝の祈りを捧げましょう。

 神さま、私たちは人生において様々な傷を体と心に負うことがあり、大きな痛みや苦しみを経験することがあります。しかし私たちの人生は悲しみや痛み、恐れに支配されてしまうのではなく、あなたがそれらの分厚い殻を打ち破る喜びをも用意してくださっていることに感謝いたします。どうか私たちがいつもそのような希望を見失うことがないようにお守りください。助けてください。イエス・キリストによって、アーメン。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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