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「差別はいけない」とみんな言うけれど。 綿野恵太(2)


前回の「差別はいけない」とみんないうけれど。の紹介の続き。

 まず前回の振り返りから。本書のテーマは、「『差別をなくそうとする人』に反対する考え方を理解すること」だった。
 その際のポイントは、ほとんどの人が「差別は良くない」と思っているのに、差別を無くそうとする人たちにモヤモヤすることがあること。そして、「差別をなくそうとする人=反差別の人」に反対するのは、このモヤモヤが大きくなった「お前たちばっかりずるい」という感情がきっかけになっていること。

 ここからは、実際どうやって「お前たちばっかりずるい」という感情を反差別の人にぶつけているかを説明したい。先にネタバレすると、モヤモヤをぶつける人たちは、反差別の人たちの論理(差別を無くそうとする考え方)をそっくりそのまま真似して攻撃している。

 だから、「『差別をなくそうとする人』に反対する考え方」を理解するには、まず差別をなくそうとする人=反差別の人、の考え方から知らなくちゃいけない。ああ、ややこしい。ただ、この反差別の考え方の整理が、この本の一番のオリジナリティだから、しっかり書いておきたい。

 では、この本の中心へ。柱のアイデアは「アイデンティティ・ポリティクス」と「シティズンシップ・ポリティクス」の対立。これは2つとも、差別をなくそうとする考え方だ。

 仰々しいカタカナが並んで、難しそう。僕も序盤はそう思っていた。でも、この本は、一貫してこの2つのキーワードを使い、問題を整理していく。最初から最後まで、差別に関する問題は、全てアイデンティティとシティズンシップの対立から解釈される。

 では、まず2つに共通することから確認。何度も書いているように、両者とも差別をなくそうとする活動や考え方のことだ。性的少数者への差別を是正する法律を求める運動や、人種や民族に基づく差別に反対するデモが今も世界中で起こっている。活動している人たちは、弱い立場にある人への不当な扱いを少しでも減らす、という目的は共有している。しかし、差別に反対する論理には、アイデンティティとシティズンシップで大きな違いがある。

 アイデンティティ・ポリティクスの基本は、「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みは分からない」。人種や民族、性別、信仰、障害の有無、性的嗜好、などなど挙げればキリがないけれど、とにかく何かの属性に基づいて差別されている人たちがいる。同じ属性の仲間にしか、この差別の苦しみは分からないと思い、仲間で団結して差別に反対していく活動をアイデンティティ・ポリティクスと呼んでいる。
 大切なことは、差別に反対する仲間は、ある程度同じような属性を持っていて、その属性固有の考え方があると主張する。例えば日本のフェミニズムは、男性のおまけではなく、女性固有の考え方、視点を強く主張して、女性の権利を獲得してきた。障害者運動も似たところがある。自らを聴覚障害者ではなくろう者と名づけ直した「ろう文化宣言(木村・市田、1996)」は手話関係者なら誰でも知っていると思うけれど、まさにアイデンティティ・ポリティクスの典型例だ。

 では、シティズンシップ・ポリティクスはどのようなものだろうか。
アイデンティティ・ポリティクスは、同じ属性の人たち同士の団結によって差別に反対してきたが、それには限界があった。団結すると言っても、もともと少数派であり、弱い立場に置かれているため、同じ属性を共有している人たちだけで「差別反対!」と叫んでも、なかなか社会に声は響かない。
 でも、よく考えると、その差別を受けている当事者じゃなくても、差別に反対することはできる。家族や友人、今ならテレビやSNSを通じて、私たちは様々な差別を知り、同じ人間なのに、こんな扱いを受けているのは不当だと怒ることができる。
 シティズンシップとは市民、つまり同じ市民として差別に反対する活動がシティズンシップ・ポリティクスだ。この市民は、場合によっては世界市民とも言えるし、ある国、ある地域でともに時間を過ごす市民とも考えられる。
 このシティズンシップ・ポリティクスの考え方を用いれば、どんな差別に対しても反対することができる。同じアイデンティティを持つ仲間ではなくとも、多様な市民一人ひとりの権利を守るため、差別に反対するのだ。シティズンシップにおいては、どんな属性を持つかに関わらず、一人の個人として尊重されることを大切にするから、どんな人も差別されてはいけない。


 さて、これでアイデンティティ・ポリティクスとシティズンシップ・ポリティクスの概要を説明した。どちらも差別をなくしていこうとする点で目的は同じであり、大切な考え方だ。しかし、この2つは絶対に両立しないことを、この本は繰り返し主張する。

 詳しい事例を紹介していくと長くなってしまうので、一つ僕にとって身近な例を。もちろん障害者について。それぞれの身近にも、アイデンティティとシティズンシップの対立が発見できるはずなのでぜひ。

 アイデンティティ・ポリティクス、つまり「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みは分からない」と考えるのはものすごく大切だ。まさに僕が修士論文で扱ったテーマは、このアイデンティティ・ポリティクスの大切さとその限界だった。
障害のある人は、健常な人たちからたくさんの配慮や気遣いを受ける。純粋な心配の気持ちもあれば、憐れみ、時には皮肉な響きもこもった、様々な配慮の言葉をかけられる。嬉しいこともあるけれど、時には嫌な思いをする。でも、同じ仲間なら、この苦しみを経験しているはずだし、分かってもらえるはず。同じ障害者同士で集まるからこそ、安心できる部分がある。そしてみんなで団結して、この障害固有の魅力や価値を、そうでない健常な人たちに伝えていこうとする。

 しかし、その活動にも限界が来る。なぜなら、仲間は圧倒的に数が少なく、そうでない健常者が大多数だ。この社会で生きていくためには、健常な人間の協力が絶対に必要になる。しかし、アイデンティティ・ポリティクスの論理は、同質性を前提としている。同じ障害を持つ者以外は、本来敵なのだ。私たち障害者の痛みをわからない人間なのだ。仲間同士で団結して対抗しないと、すぐに健常な多数派たちに活動を乗っ取られてしまう。
 もし仮にシティズンシップ・ポリティクスに乗り換えると、多様な人間がいる前提になる。多様な市民という視点で、同じ障害者同士を見てみると、障害は同じでも個人によって症状の重さや育ってきた環境、地域ごとの福祉制度など、それぞれが抱える差別の問題は違うことにお互い気づき始める。障害種としては同じだけれど、全く同じ目的を持って活動できるとは限らない。これじゃあ団結できない。アイデンティティ・ポリティクスだけで活動していれば、同じ障害者同士で仲間だ!という考え方だけで進めることができた。
 それに限界が来て、シティズンシップ・ポリティクス的にそれぞれみんな違うけれど、同じ市民として差別に反対することが必要になってきた。ただし、障害者固有の価値観を特別視できなくなり、どんな問題に対しても等しく活動しないといけなくなる。どんな差別も許さないが、わざわざ一つの障害にこだわって活動する理由もなくなってしまう。なぜなら、多様な人間一人ひとりを大切にしていくのに、何か一つの属性だけを特別扱いできないから。


 2つの違いをまとめると、アイデンティティ・ポリティクスは障害者として差別されていると考え、シティズンシップ・ポリティクスは、一人の個人が差別されていると考える。どちらも差別に反対するする点では同じと言えるけれど、その基本にある人間観には大きな乖離がある。こちらを立てれば、あちらは立たない。

 これが、差別に反対している人たちが抱える、アイデンティティとシティズンシップの対立問題だ。本当はこの二つの概念を使って「差別に反対する人」に反対する人(=お前たちばっかりずるいと言う人)の論理に迫ることがこの本の目的だったけれど、そこまで辿り着けなかった。かなり簡略化しても終わらない。ややこしい。次回に続けよう。

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