ただ信じることの難しさ
僕はある時から人のことを全く信用できなくなったんだ。
ある時急にというよりは積み重なった結果なんだろうけど、特に人から発せられる言葉に関しては信じるのが怖いんだ。
例えば、僕のことを褒めてくれる人は結構たくさんいる。
けど、それが本心で言っていると信じることができないんだ。
だから、素直に受け取ることもできないし、それに対して嬉しいと感じることもなくなってしまったんだ。
みんなももしかしたら人によって『この人は信頼できる』とか『この人の言うことは信用できない』とかそんなことはあるかもしれないよね。
でも、僕の場合はそうじゃないんだ。誰の言葉も信じることができない。
その理由はおそらく、人間が本来持っている不誠実さを目の当たりにしてきたからだと思うんだ。
特に日本人は思ってないことを平気で言う。他人の結婚式で何も思っていないのに、自然と幸せそうな笑顔を作ることができる。
他人の不幸に対して、悲しくもないのに悲しいような顔ができる。
それが普通といえば普通だし、社会的なインタラクションの一つだと言われればそれまでだけど、僕にはそれがどうしても受け入れられない。
だから、どれだけ言葉で説明されても信じることができないんだ。
だって、それって証明のしようがないだろ?
例えば、みんなもパートナーに対して『愛してる』と言ったことが1度や2度はあるはずだ。
ただ、それが本心であることをどうやって証明する?『証明して?』と言われたらどうする?
例えば、言葉で愛を説明する人もいるかもしれない。けど、それは証明にはならない。
かといってその証明に花束を渡したところで、証明が完了したことにはならない。
もっと言うと、そうやって言葉で愛を伝える時、それが本心かどうかは本人すらも分からないんだ。
めんどくさいやつだと思われるかもしれないが、僕はそういった曖昧なものを曖昧なままに置いておくことができない人間なんだ。
少し話が変わるんだけど、昨日高校の同級生たちと1年ぶりくらいにご飯に行ってきたんだ。
二人とも仕事で関東に出ているから、彼らが帰ってきた時しか会えなくて、それが昨日だったわけだ。
その二人には恋人がいて、当然その話にもなるだろ?
その時にどうやって相手を信じているのかを聞いたんだ。
すると、友達が『それはもうそういうものやと思って信じるしかない』って言ってたんだ。
例えば、彼女から連絡が一晩中返ってこなくて、朝に『寝てた』と言うメッセージが入ってたら、何の根拠もないけど『あ、寝てたんや』と信じることにしてるそうだ。
つまり、二人とも盲目的な信頼をパートナーに対して持っているわけだ。
それを聞いて僕はすごく感心した。すごいなと思った。
なぜなら僕はそれが怖くてできないから。
何の根拠もないのにただただ信じるということがどうして出来ようかと常々思ってしまっているんだ。
こんなにも不誠実で、自分にも他人にも平気で嘘をつけるこの人間という生物をどうしてここまで信用することができるのだろうか、と僕は本気で思っている。
けど、多分この社会の中で人間関係を営んでいくためにはそういった『ただただ信じる』という態度が大切なんだろうし、それができない人って社会的な生活が難しいんじゃないかなって最近思うんだよね。
そういう人は一生孤独を貫かなくてはいけないんだろうなと思う。
孤独というものをなるべく謳歌しないと生きていけないんじゃないかなと思う。
なるべく他人と関わらず、なるべく人に寄りかからず、なるべく一人で生きていかなければならないんだ。
僕にはその覚悟があるんだろうか?
今はまだ分からない。けど、その覚悟を持てた時に、僕はもっと行きやすくなるんじゃないかと思ったんだよね。
多分同じようなことを思っていたり、それで悩んでいる人ももしかしたらいると思うんだよ。
そんな人にはおすすめの本があるんだ。
哲学者の中島義道さんが書いた『人間嫌いのルール』だ。タイトルから捻くれた感じがするだろ?
ただ、この記事に共感できる人はかなり救われると思うから、ぜひ読んでみて。
ただ信じることの難しさ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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