大人の思春期とE.L.カニグズバーグ『ぼくと〈ジョージ〉』

〝大人〟と〝思春期〟はいわば対義語で、大人の思春期という言葉は矛盾している。
けれど、わたしとわたしのまわりの悩める友が今向き合っているこの困難は、思春期という名前が一番しっくりくる。その現実がある。
仕事もそれなりにできるようになり、経済的にも安定し、社会を知った30歳ごろ。自分はこれでいいのか?本当に豊かなことはなんだったっけ?と迷い出す。迷いなんてどの年齢でも起こるじゃないかという声が聞こえそうだが、この迷いが決定的にほかと違うのは、抗いがあるということである。社会を生き抜くカシコいやり方を知った大人が、本当の豊かさを考えたときに、そのカシコさを放棄すべきか悩む。この点において、子どもの思春期に重なるのだ。
もちろん、そこまでに積み上げてきたものはあるが、フェーズが変わろうとするときに、誰しも不安を抱く。不安なときには、他人の声は大きく心に響くものだ。そして大多数の選択に揺らいでいく。不安が落ち着いたころ、自分が導かれた声に対する疑問が生まれる。そんな経緯でおそらく30歳ごろ、先に述べた思春期に突入する。
その思春期で溺れそうになるわたしを掬い上げてくれたのが、『ぼくと〈ジョージ〉』(E.L.カニグズバーグ,岩波書店)だった。この本は岩波少年文庫のなかの一冊で児童文学に分類されてはいるが、大人の思春期にもよく効いてくれる。
内容にふれておこう。ぼくとジョージ、まるでふたりの人物のことのようだが、これはいずれも、ベンというひとりの少年のことである。ベンは、大人しく頭がよく、特に化学に長けている優等生である。ただし、ベンのなかに住むジョージという人格が、言葉遣い荒く口を出しさえしなければ、だ。すこし語弊があるが、わかりやすく言うならば、ベンの中には、ぼくと、ジョージという人格と、ふたつの人格があるのだ。
小さなころから、ベンとジョージはうまくやってきた。しかし、級友や先生に対するベンの態度から、関係がおかしくなってきたベンとジョージは、学校で起きた盗難事件をきっかけに決裂してしまう。しゃべらなくなったジョージと、ベン。盗難事件が解き明かされてゆくと同時に、ベンとジョージの関係性もまた、変わってゆく。
思春期の少年の複雑な思いや価値観の葛藤を、ひとりの少年のなかにふたつの人格を住まわせるというなんとも奇抜な手法で描いた作品である。
おそらく、大人の抗いはかなり孤独なものになる。ひとりで無意味な戦いをしているのではと弱気になっていたわたしは、作中のジョージの言葉にどれだけ勇気づけられたことか。

訳者の松永ふみ子氏のあとがきにはこうある。
「自分の中でいま混乱が起こっている、その混乱は、たとえ苦しくても、大切にし、忍耐して、克服しよう、と決心することができる人は、群れとは違った、自分なりの価値観をつかむことができるでしょう。」 
自分の本当の生き方は、そこにあるのだ。

堅苦しいことを書き連ねたが、物語自体はまったくそうではなく、ユーモアにあふれている。ジョージの話しぶりや、ベンと弟のハワードのかけあいなんかは、思わず笑ってしまう。物語の展開も気になって次々とページをめくってしまう。

とにかく、すべての迷える大人にすすめたい一冊である。
素直でまっすぐなゆえに悩む愛しき人たちへ。

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