見出し画像

【小説】想い溢れる、そのときに(6)

前回のお話はこちら


あらすじと第一話




6


 あの日から、私は十日間仕事を休んでいる。いい加減戻らないと、本当に私は再起不能になると思うのだけど、思うだけで体は全く言うことを聞いてくれなかった。休みたい旨を伝えた日、高宮部長はとても安堵した表情を浮かべていた。

「やっと休んでくれる気になってくれて本当によかったよ。申し訳ないけど、娘さんの葬儀の二日後から出社って、その、…普通じゃなかったよ? 私もだけど、他の皆も本当に心配してたんだから。」

 尤もなことを言われて初めて、私はあの子への気持ちを整理する時間をまともに取ってこなかったことに気づいた。向き合わないようにしていたという方が正しいかもしれない。その行為によって自分がどうなってしまうのかまるで見当が付かないことが恐怖だった。
 準備を重ねてきた新しい顧客アンケート用アプリの企画も、全て白紙となった。戻ってきたらまたプレゼンの機会は設けるからと言ってもらえたけれど、そんなに会社も甘くないことくらい重々承知している。そもそもいつ戻れるのかも分からない状態で、新鮮さの失われたアイディアなんて誰が求めるというのだろうか。
 せっかく頑張ったのにという気持ちが湧き出てくると同時に、まるであの子のせいでそうなってしまったみたいな物言いをする心の中の自分が顔を覗かせてくるので、私はそのたびに自身を殴り倒したくなった。


 休み始めた最初の二日間こそ何もできなかったけれど、その後は少なくとも生命維持に必要な最低限の生活行動は取れていた。
 あれから毎日ちゃんとお風呂にも入っている。スキンケアはほぼ何もしていないし、髪の毛も自然乾燥だけど、それでも十日前の自分に比べたら随分と清潔になっているはずだ。

 あのトイレの一件があった日の夜、私は電車もタクシーも使わずに自宅まで二時間かけて歩いた。
 あれだけ明確に自分の体臭について話された後に、不特定多数の人間のいる空間に突撃することはできなかった。きっと前日に乗ったタクシーの運転手も、私の臭いのせいで大変だったことだろう。それでも不自然にならないように換気をしたり、話を続けてくれていたことを思い出すと、恥ずかしさと情けなさとで、私の足は自宅までの道のりを更に加速していった。

 シャンプーを髪の毛に擦り付けると、ほとんど変化のないくらい泡立たなかった。サボンのシャンプーは他の市販品に比べても泡立ちがいい方で、それこそ流したあとの浴室の床をしっかりと流さないと、排水溝付近に弾力を保ったままの泡が残るくらいだ。
 それが全くと言っていいほど泡立たなかった。一週間くらいと思っていたけれど、改めて日を数えてみると、私は二週間以上もお風呂に入っていなかった。その期間はもちろんのこと、何より指摘されるまでそのことに気づきもせず日常を送ろうとしていた自分自身に恐怖した。

 憑りつかれたように何度も全身を洗ったあと、ゆっくりと湯船に体を沈めた。入り始めこそお湯の温かさに少し心が解されたような気になったけど、換気扇の音と、時折私の動きに合わせて流動するお湯のちゃぷちゃぷという音だけが響く空間で、私の頭の中はあの子のことで満たされていった。
 あの日家を出るとき、私は何て声をかけただろう。あの子はどんな表情だっただろう。毎日見慣れたその光景を鮮明に思い出すことはとても困難だった。
 それなのに、初めて間近で産声を聞いたときの空気の振動、私の横で寝返りをしようと頑張るもぞもぞとした面白い動き、目を離した隙に離乳食を素手でテーブルに塗り広げていたときの絶望感、初めて舞う雪を見たときの驚いた表情。そんな遠い過去のことばかりが昨日のことのように鮮明に蘇ってくる。
 初めて覚えたお花の名前がドクダミだったっけ。公園で群生しているところがあると、ドクダミドクダミと指さしをしながら延々と言い続けていたな。マフラーと枕の音の区別がつかなくて、冬にはいつも「寒いからまくらー巻かないと」と言っていて、面白いからしばらくそのままにしていたなんてこともあった。その話を中学に上がったころに聞かせたら、ひどい!と怒っていて、それはそれで面白くてかわいくて、本当に本当に、いくつになっても愛おしかった。

 次々にあの子の色々が溢れ出てきて、そのまま涙も流れ続けた。
 どうしていなくなってしまったのだろう。私たちが何か悪いことでもしたのだろうか。仕事も家事も、可能な限り頑張ってきたつもりだ。あの子のことだって、最近は少し距離もできていたけれど、思春期の子と親の正常な関係の範囲内だったはずだ。週末にお互い予定がなければ一緒にお出かけもしていたし、学校のことや仕事のことをお互いに話してもきた。シングルの家庭だったから、世間的には色々な目で見られていたであろう私たちは、そんなことには構わないようにして支えあって生きてこれたはずだ。
 一体、私たちが何をしたというのだろう。どうしてあの子だったのだろう。死ななければいけない人間なんて世の中たくさんいるはずなのに、どうしてあの子が選ばれてしまったのだろう。せめて私ではダメだったのだろうか。

 何一つとして答えのでない疑問を反芻しながら、私は全身がお風呂に溶けてなくなってしまうのではないかと思うくらい長い時間、慟哭し続けた。
 きっとこのまま完全に溶けたなら、私もあの子と同じところに行けるような気がした。それでも、洗い立ての体は息を吹き返したみたいに、のぼせそうになっていることを私に知らせてきた。こんなにも苦しいのに、こんなにもあの子の姿を見たいと思っているのに、私は無意識に生きることを選ぼうとしていた。そういう身勝手な自分が許せなくて、うっうっと込み上げる嗚咽を潰すように、何度も何度も胸のあたりを叩き続けた。

(7へ続く)

食費になります。うれぴい。