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【小説】想い溢れる、そのときに(10)


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第一話とあらすじ




10


 薄いグレーのカーテン越しに朝の光が差し込んで、柔らかく部屋の中を包み込んでいく。
 東京と違って、この辺りは5月でもまだまだ肌寒いから、私は眩しさに眉間を寄せながら毛布を顔半分のところまで掛け直す。
 遮光カーテンにしてくれれば、あと2時間は眠れるはずだ。これから更に日の出の時刻は早まるのだし、すっかり夜型になってしまった私に朝日の目覚ましは強烈過ぎて堪らない。
 それでも「いやだよ、そんないちいちあんたの為に」と母が嫌がったので、私は今日もそのまま瞼に力を入れて毛布をかぶる。家主の言うことに従わないと、いつ追い出されても仕方ないのが居候の悲しい現実だ。


「中途覚醒、良くないのに」


 母はすでに出勤していたので、六畳の狭い和室に虚しく漂った私の愚痴は、そのまま行き場を失って溶けて消えた。
 母はこの県営住宅から自転車で5分のところにあるリゾートホテルで清掃の仕事をしている。
 平日は早朝シフトなので、大体4時半には家を出て行く。その時刻より少し前に寝床に潜り込むのが、ここ最近の私の生活スタイルになっていた。
 東京から戻ってきた当初こそ、身についた朝6時起きをそのまま続けていたけれど、次第に行動時間は後ろへ後ろへとずれていった。

 少しだけお休みをもらって心の整理がついたら、また仕事にも集中できるだろうと思っていた。
 でもいつまで経っても私の心にあの子は残ったままで、あと三日、あと一週間、と延長をお願いしていくうちに、とうとう会社側から休職の提案をされた。
 辞めさせられなかっただけましなのかもしれない。ただこの休職が何を意味するのかは、長年会社員として働き続けてきた身として十分過ぎるほど分かっている。
 女としてこの国で働く以上、空白の期間はあってはならない。男以上に、キャリアを止めることが今後の足枷になることくらい、理解している。
 そこまで分かっていて、私はその提案を受け入れた。

 13時を過ぎると、尿意と空腹で一旦は起き上がるけれど、やっぱりお水をコップ一杯飲むだけでそれ以上は口が受け付けなくなる。
 キッチンでしばらく立ち尽くしながら、落ちそうで落ちない蛇口の水を眺める。時計の秒針が等間隔に鼓膜を震わせて、世界が私を知らんぷりして通り過ぎていくのを感じる。
 水が細かく揺れながらやっと一滴落ちたのを見届けた後、私は思い出したようにベランダへ向かった。

 窓を開けた瞬間に、ひんやりとした春の空気が着ているパジャマごと私を丸ごと包み込んできた。
 何処となく香る硫黄の臭いも、最近はもう慣れた。
 子供の時は当たり前過ぎて何も感じなかったけれど、大人になってからは帰省のたびにこの臭いが全身に纏わりつくのが嫌で仕方がなかった。


「いいじゃん、観光地って感じで。何ならおばあちゃんも温泉の匂いしてるし。私は好き。安心する。」


 ふいに、いつかのあの子の声が聞こえてきて、私はそれを振り払うように慌ててタバコに火をつけた。奥深くまで吸い込んで、出し惜しみするようにゆっくり細く煙を吐き出していく。なるべく頭の中が素早くボヤけるように、煙を肺の中で滞留させる。
 春の陽射しは冬よりも攻撃的で目に痛い。それでいて湿度はないから、浴び続けても汗ばむようなこともなくて、タバコを吸い切るまでの間、私はずっと目を閉じたままベランダの柵にもたれかかる。


「お母さんタバコって吸ったことある?」
「え、なんで?」
「いや別に。意味なし。」
「やだやめてよ?吸わないでよ?ダメなんだよ年齢的に。」
「はぁ?吸うなんて言ってないじゃん。ただ聞いただけ。」
「だっていきなりだったから。身体にもね、全然いいことないんだよ。興味本位で吸い始めると」
「あー!もう!大丈夫!もういい!…何なのマジで。普通の会話もできないじゃん、これじゃ。」


 そうだね、ただ何気ない会話の一つに過ぎなかったんだよね。あの年齢でお酒やタバコに興味が出てくるなんて、当然っちゃ当然か。そもそも私がタバコ吸い出したの、高一だったもんなぁ。だからかな、自分と同じにはさせたくなくて、一人で勝手に焦っちゃったのかもしれない。でもそれなら、別に、じゃない言い方なかったの?あの子もあの子で態度が分かりづらいでしょ。もっと会話を続ける態度で話し掛けてきてくれなきゃ。

 片側だけ上がった口角の隙間からふっと息が漏れた後、私はすぐさま拳を握って太腿を三回思いっきり叩いた。
 また訪れたいつかのあの子から逃げたくて、足早に部屋の中へと戻った。


 東京から母の元へ戻ってきてからというもの、仕事をしなくなった代わりに持て余す時間も増えていった。
 その分、いつかのあの子が出てくる瞬間が至る所に転がっていて、私はそれに振り回されてばかりいる。どの瞬間にもあの子は紛れ込んでいて、その度に懐かしんだり喜んだり、あれは私悪くなかったでしょと怒ったりなんかもした。
 でも大抵の場合、目の前にいるわけでもない娘のことで感情を揺さぶられている自分自身の異常さに呆れたし、何よりもあの子の不在そのものへの哀しみが九割九分を占めていた。
 どこに行っても、何を見ても、思い出すことは山ほどあった。そこから逃げる為に、私は今日も日が沈むまでなるべく布団の中で目を瞑る。


 夕方になると、母がドタドタと不快な足音をたてながら帰ってきた。
 カシャカシャとエコバッグの擦れる音と、そこから買ってきたものを次々に冷蔵庫へ入れていく音が全て聞こえてくる。わざとらしくも彼女に取っては自然な物音で、学生時代私はこの生活音がとても苦手だったことを最近思い出した。
 そっと開けてるつもりの引き戸の音が聞こえた後、数秒の沈黙の間で私の生存確認がされた。その後やっぱりそっと閉めているつもりの引き戸の音がサーっとゆっくり聞こえてきて、眉間に込められていた力がすっと緩んでいく。
「いつまで寝てるの?」「あんた今日一日このままだったの?」などと、この家に戻ってきてから母は一度も言ってこない。
 母なりに私を心配してくれてのことだろうけど、その気の使われ方も何だか他人ぽくて淋しくて、もし自分が同じ立場だったら私はあの子に同じような態度で接したのかなとか考え出すと、ありもしない未来の孫の死で自分の行動を妄想することの虚しさに心が震えた。
 私はまた強く目を瞑った。


 母が入浴している隙を見計らって、私はそっと家を出た。県営住宅のすぐ裏手にあるコンビニへ、今夜の晩酌用のお酒と、残り少なくなったタバコを買いに向かった。
 コンビニの向かい側には、リゾートホテルに併設された大きな浴場施設があるので、地元の住民よりも観光客がいることの方が多い。今日も観光客と思しき大学生みたいな集団が、わいわいと酒を選んでいた。


「500で足りる?」
「350を二缶の方が良くない?」
「リサ、レモン系がいいって。今LINE来たよ」
「あ!これ飲みたかったやつ!」
「それ俺もう飲んだよ。ゲロまず。」
「ちょっと!買おうと思ってんのに!」
「酒ってやっぱ度数の高さで見ちゃうんだよねー私。」


 ショーケースの前で自由に延々と話し続けている彼らを、始めのうちは後ろから眺めていたものの、次第にその悠長なやり取りに苛立ってきてしまい、気付くと私は心の中の意地悪な部分を全て言語化していた。


「早くどけよ。いつまで選んでんだよ。後ろに待ってるやついんだろ。さっきチラッとこっち見ただろそこのツインテールのブス。気付いたなら気効かせろ。ガキは安い酎ハイ飲んどきゃいいんだよ。どうせ味わかってねぇだろ。イキがってんじゃねぇよ。とっととカゴにいれて消えとけ。邪魔なんだよ。」


 気付いた時には全員がこっちを振り向いていた。
 きっと聞こえるかどうか分からないくらいの声の大きさだったと思うけど、この距離なら何を言っているのかは聞き取れていたかもしれない。


「あの、どうぞ?」


 重めの前髪の男の子が声を掛けてきたので、私は勢いよく扉を開けて500mlの缶ビールを三本取った。


「ブツクサおばさん」


 缶ビールを腕に抱えてレジに持っていくとき、背中越しに聞こえてきたその声は、先程度数がどうこうと言っていた女の子のものだった。
 何人かのクスクスという笑い声と、ちょっとやめなよというシリアスなトーンのツッコミとがコンビニの端の方で毒霧のような空気を作って私を追い立てた。
 それでもなるべく平静さを保とうと、レジ横のおつまみコーナーから適当にいくつか商品をぶん取った。

 バーコードを読み取る電子音を聞いている間に、彼らも隣のレジに呼ばれて会計をしていた。
 その間もこちらをチラチラと見てきているのが丸わかりで、早く帰ってくれと願うばかりだった。
 先程の怒りに任せた自分はもうどこにもいなくなっていて、いい歳をしているのに若者にブツクサと文句を言うただの恥ずかしいおばさんがそこに立っているだけだった。
 商品の少ない私は、彼らよりも早く会計を終えて、逃げるようにコンビニを後にした。

 早く家に帰らなきゃ。帰ったら母の作ってくれた夕飯を食べて、ビールを飲もう。またお風呂に入ってぼーっとして、眠くなるまで漫画でも読もう。でももうそろそろ本棚のものは全部読み返しちゃうし、その後はどうしよう。何をしよう。でもその前に、やることがある。


 まだ冬の刺々しい空気が残っている五月の夜は、私の汗を急速に冷やしてきたけれど、それも追いつかないくらいに身体中が熱を帯びていた。
 全速力で家の中に入ると、そのままトイレに駆け込んだ。母はまだ洗面所でドライヤーをしていたので、タイミング的にもちょうど良かった。
 壁の吊り戸棚を開け、掃除用具の入った箱の奥底から隠している剃刀を取り出すと、震える手で左腕の内側に刃を当てた。
 大きく深呼吸をしながらそれに合わせてゆっくりと刃をスライドさせると、張り詰めていた皮膚がぷつっと離れて、裂け目から嘘みたいに鮮やかな赤い液体が溢れ出てくる。次第に自分の鼓動に合わせて傷口も痛み出すけれど、その痛みが私を少しずつ死に近づけてくれているみたいで心地良かった。
 それはつまりあの子のところにも近づけているということになるわけで、あと何回この痛みを味わえば、私はあの子に再び会うことができるのだろう。
 そんな途方もないことを繰り返さなくても、この刃をあと少し掌の方へと近づけて深く差し込むだけで願いは叶うのに、やっぱりそんな勇気の出ない自分の情けなさに涙が止まらなくなる。


 便器の中に滴り落ちる血液は、あの日アスファルトの上に広がっていたあの子の黒々としたものとはまるで別物みたく、生き生きとした深紅色をしていた。


(11へ続く)

食費になります。うれぴい。