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【小説】想い溢れる、そのときに(13)

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第一話とあらすじ




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13


 今夜はいつも以上に肌寒くて、太陽の温もりを捨てた風がくたびれたジャージの隙間を駆け抜けていった。コンビニの前を通り過ぎて、そのまま山の方へと進んでいく。観光用に作られた広めの道路には、車はおろか野生動物の気配すら無かった。私と風にざわめく木々の葉だけが、世界を動かしていた。

『あんたがまなちゃんとこ行こうとしたら、連れ戻せんくなっちゃうから』

 母の言葉が頭の中でリフレインする。行かないよ。行く勇気なんて、持ってないよ。死ぬことに対して私が無意識に抗うことくらい、ここへ来るまでに嫌という程理解した。そしてこの土地に戻ってきて、それは更に強固なものになってきている。もし私が死んだら、母は私とほとんど同じ思いをすることになってしまう。それがどれくらい辛いものなのか、まさに今この瞬間さえも押し潰されそうなのだから、分かり過ぎるほど分かっている。

 少しずつ解き放たれていたあの子に対する私の過剰な自意識は、行ったり来たりを繰り返している。思い出を思い出として受け入れながら、たまにこうして逃げ切ることのできない事実としてのあの子の死が襲い掛かってくる。他人の言動や世の中のニュース、ふとした瞬間に香るぬくもりの中にだって、何気ない景色のカケラに潜むあの子の不在を、私は思い知らされてしまう。揺り戻しが起こるたびに、私はこうして自分の気持ちと向き合っていかなければならないのだろうか。

 根っこをザクザクと切り掘られて、硬い地面に放り出された私の心の芯の部分には、弱々しく震えて佇む臆病な中年女が体育座りをしている。その場に新しく根を張ることも、蓄えられた力を振り絞って自分を再び芽吹かせることもできずに、自ら流す涙だけでどうにか枯れないように必死に形を保っている。

 ここからどうやって這いつくばればいいのか、或いはその場に根付いて葉を茂らせていけばいいのか、やり方がまるで分からない。全ての事象にあの子のことを映し出して、ただ遣る瀬無く首を項垂れ続けるのなら、私の苦しみは永遠に続いていくことになってしまわないだろうか。私はそれを、耐えられる? いつかは淋しくなくなる?


 随分と長い時間歩き続けて、気付くとスキー場の入り口に着いた。シーズンオフで青々と茂る巨大な草原の滑り台は、山頂から吹き荒ぶ風に吹かれて順番に頭を揺らしていく。冬の気配を残したまま取り残されている月の光が、その風の駆け降りる足跡を薄紫色に照らしていた。

 風が私の元へと到着すると、首筋に垂れる一筋の汗を瞬間冷やしていく。身震いをしたあと、私は駐車場の車止めに腰を下ろした。膝を抱えるようにして座ると、自分の息遣いが膝に反射して大袈裟に耳に届く。長く歩いて上がってしまった息をゆっくりと整えるように、長めに息を吐いていく。タバコの煙を吐き出すときは上手くいくのに、ただ息だけを吐こうとするとすぐに肺の中が底を突く。そのうちみぞおち辺りが震え出して、私は更に力強く膝を抱え込んだ。
 こうなってしまうと、もう上手く呼吸ができなくなる。涙が出るわけでもないのに、ひっくひっくとしゃくり上げながら、どうして家を出てくるときに一緒に剃刀を持ってこなかったのだろうと後悔した。

 私にとって、傷を付けることは心の平和を得ることと同義だった。まだ私は生きているということへの絶望と安堵、あの子が最後に味わった痛みや苦しみを、その何万分の一でもいいから体感できることへの喜び、助けてあげられなかった申し訳なさ、死に少しでも近づくことであの子との距離が縮んだような錯覚。
 馬鹿みたいなことをしているのなんて、私が一番理解している。でも今はこの方法しか自分を落ち着かせることができなかった。そしてそれを母に見抜かれ、しかも黙って赦してくれていたことを知って、とんでもなく大きな羞恥の群れが私に襲いかかってきていた。
 強くならないと。もっともっと、強く。私はこの先も、あの子の不在を受け入れ認めながら生きていかなければならないのだから。

 不意に右の足首に何かが触れた。思わず小さく悲鳴を上げて横に身を避けると、もぞもぞと動く大きな毛玉が私の脚に体を擦り寄せていた。

「こんなとこまでお前の行動範囲なの?」

 丸子は背中が痒いのか、ほとんど地べたに横になった状態で私の足首に何度も纏わりついてきた。顎の辺りを指で揉みほぐすと、丸子は喉の奥を鳴らしてゆっくりと口を開けた。
 ぽたぽたと丸子の口から何かがこぼれ落ちたので、私は足元の暗闇を凝視した。それは丸子がまた咥えてきた花だった。いつもの赤いオダマキではなく、丸い四つの花弁のようなものから、短い猫じゃらしのようなものがピンと生えていた。

「のくなみ?」

 その小さな花を指で摘んで顔に近づけてみると、いつかのあの子の声が聞こえてきた。

「違うよ、ドクダミ」
「のくたみ?」
「ど・く・だ・み!」
「の・く・た・み!」

 ケラケラと楽しそうに笑いながら、あの子は私の言葉を間違えたまま繰り返していた。

「ど、だよ。ドーナツの、ど!」
「あードーナツってさ、この前の昨日のこの前に食べたさ、チョコが付いてて、あのぅ、まなちゃんがさ、お母さんのやつも半分食べちゃったドーナツでしょ?」

 一つの単語に付随する情報がいちいち多くて、小さい頃のあの子との会話はとても面白かった。あの子にとっての一瞬は色濃く鮮やかで、言葉での説明は辿々しくても、同じ景色を見ている私より彼女の方が何倍も解像度が高かった。

「そうだね、そのドーナツの“ど”だよ。ドクダミ。」
「どくなみ!ドーナツの“ど”と、どくなみの“ど”は一緒だね。」
「そうだね、一緒の“ど”だね。」

 あの子を保育園へ送る時は、いつも頭の中が沢山の思考でパンクしそうになっていた。電車の到着時刻までを逆算してみると、あともう少し急いで自転車を漕がないと間に合わなくなってしまう。でも今日は社外でのミーティングがあるからと、7cmの高さのパンプスを履いていた。駐輪場から走って駅まで行くことは無理だと考えると、私は爪先に更に力を込めてペダルを漕いだ。

「あ!ここにもどくなみ!ここにも!」

 公園の横を通り過ぎると、フェンスの隙間から溢れ出るようにドクダミが生い茂っていた。そのひとつひとつを指差しながらはしゃぐあの子の姿が可笑しくて、せっかく込め直した力が一気に抜けた。口から自然に笑い声が溢れると、私がどれだけ必死の形相で自転車を漕いでいたのかを初めて自覚することができた。

「ここもここもここも!どくなみどくなみどくなみ、どくなみ!あそこもどくなみ!ここもどくなみ!」

 私の笑い声に気づいたあの子は、こちらをちらちらと振り向きながら何度も同じことを繰り返していた。その姿もまた可愛くて愛おしくて、遅刻するかもしれないと分かっていたけれど、私はほんの少しスピードを落とした。

「いっぱいだね、ドクダミだらけだ」
「どくなみがさ、こんなにいっぱいあったら大変なんじゃない? まなちゃんのおうちも、おとうさんのおうちも、おばあちゃんのおうちも、ちえちゃんのおうちも、あとぉ、まさくんのおうちも、みんなどくなみになっちゃって、全部どくなみになっちゃうの」
「ねぇ、全部ドクダミになっちゃうね。大変だ。」
「どうしようー!」

 大きな声で叫ぶあの子を見て、すれ違った初老の女性が微笑んでいた。こうしてあの子の存在が周りに笑顔を生んでいる。そう思うと、私は何故だか誇らしく感じた。
 あの子はだから、ずっと生きていかなきゃいけなかったんだ。

 これまでの私は、一体どれだけの笑顔をあの子からもらってきたのだろう。私はそれに見合ったお返しができていたのだろうか。笑わせてもらったことばかりで、私があの子を笑顔にしたことなんて、そんなに多くはないように思う。それでもこうして私が笑った記憶の中には、必ず笑顔のあの子がいる。まるで世界中の幸福がそこに凝縮されたようで、私の中の全てだった。
 にゃあと一声、丸子が鳴いた。月の光に照らされたグレーの瞳は、真っ直ぐに私のことを見つめていた。

「真香が…死んじゃった。」

 その瞳に吸い出されるかのように、私がずっと口にしたくなかった言葉が衝いて出た。

「真香が、し、…死んで」

 言葉を飲み込もうとすると、代わりに涙がこぼれ落ちた。しばらくどちらも我慢しようと必死に堪えてみたけれど、抑え込むことなんてできなかった。ここが静寂に包まれた深夜の駐車場だなんて、そんなことも忘れてしまうくらい、私は大声をあげて泣き喚いた。いつもみたいに何度も太腿や胸の辺りを拳で叩いても、嗚咽を止めることはできなかった。

「死んじゃった。真香が、死んじゃった。」

 自分に言い聞かせるように同じことを繰り返しながら泣き叫ぶ私を、丸子はじっと眺めていた。両手に乗せたドクダミの花達は、私の涙に溺れて艶やかに煌めいていた。
 あの子が私の全てだった。その全てを失くしてしまった今の私に、残されているものはあるのだろうかと、ずっと考えてきた。あの子が死んだその事実を口に出してみて初めて、私はその答えに少し近づけたような気がしていた。抜け殻のような私と一緒に残されたあの子との思い出は、決して虚像でも何でもない。私のこの目で、耳で、身体全てで感じてきた私にとってのあの子の全てだ。思い出すことのできる思い出が、こんなにも沢山残されているのに、私はずっとそれが目の前に現れるのを恐れていた。自分の気持ちに蓋をして、事実から目を背けて、なるべく日常を続けていこうとしていた。
 でもそれが、あの子の残してくれたものを蔑ろにする結果になってはいないだろうか。こんなにも愛おしい時間が存在していたこと、私の一部として追憶の中に生き続けていたこと。あの子の生きた証をこの先も示していけるのは、残され生き続けている私以外にはいないのに、それを認めるには、あの子の死を受け入れなければならなかった。死んだ方がましと思えるくらいに苦しく辛いことだけど、そうしないと今度こそあの子がこの世界から消滅してしまう。私の知っている限りのあの子の思い出を、私はこの先も大切に抱えて生きていかなければいけない。あの子を二度も死なせるわけにはいかない。

 声も枯れてしまうくらい長い時間泣き続けて、私は段々と目が開けられなくなっていった。きっと今、相当酷い顔をしているだろう。風がひんやりと頬を撫でていくけれど、乾く間も無く流れ続ける涙の温かさの方が勝っていた。いつも自ら切り開いて流していた血液の温かさによく似ていて、こんなにも悲しくて淋しくてどうしようもない気持ちと共に涙を流しているはずなのに、私は次第に安堵し始めていた。
 頭の中では分かっていたはずのあの子の死を、私は今初めて受け入れることができたような気がした。少しの爽快感が、徐々に罪悪感へと変わっていったけど、そこに後戻りをするという選択肢は見当たらなかった。追憶の中に生きるあの子のことを、もっと沢山思い出してあげたい。そう思えている自分が嬉しくて、私はふふっと口角を上げてまた涙を流した。今度のそれは、血なんかよりも更に温かく心地良かった。


 呼吸を整えながら家路を歩く間、丸子は私の歩幅に合わせて短い脚をせかせかと動かしていた。真横を歩きながら時折ちらっとこちらを見てくるけれど、すぐにまた前を向いて早歩きをしていた。
 コンビニの前まで来ると、丸子は駐車場に止まっていた軽トラックの下に滑り込んでいった。そのままこちらを振り向くことはなかったけど、私は勝手に丸子からの優しさを感じて小さくありがとうと伝えた。
 玄関の扉を開けると、母が台所から玄関に飛び出してきた。

「あぁ、良かった。おかえり?」
「うん…。ただいま。…ごめんなさい。」

 洗い物をしていたであろう母の手は、指先が赤くなっていた。その手をそっと握って、私は蚊の鳴くような声で謝った。

「こんな体ひゃっくうして。早く座って暖まんなぁ」

 まだホットカーペットを片付けなくて良かったと言いながら、母は温かいほうじ茶を淹れてくれた。熱くなった湯呑みを袖を伸ばして掴んで、私はずずっとひと口啜った。泣き叫んで枯らした喉に、熱々のほうじ茶が染み渡っていく。じわじわとした痛みと共に鼻腔から香ばしい香りが抜けていく。そのまま深呼吸をすると、体の中心にある小さな松明に火が灯ったように、私の体は温まり始めた。

「どこで泣いてきたんべ? え?」

 母は少し嬉しそうに私の頭を撫でた。きっと私がもう帰ってこないことも想像していたのだろう。それでもこの家で帰りを待っていたときの母の気持ちを考えると、申し訳なさで一杯だった。

「早紀、子供が亡くなって心が乱れたって、しょうしいことなんかなぁんにもないよ? 親ならみんなそうなるさぁ。よいじゃねぇもの。」

 私は無言で頷き、またほうじ茶をひと口啜った。水分を補給したからなのか、あんなに泣いて枯れ果てた涙がまた溢れてきた。

「死んだ人に死んだこと教えてあげられるんは、生きてる人間だけなんだに。生きてる人間に生きてること教えてくれるんは、死んだ人間だけ。お互いに繋がってるんよ?」

 壊れた人形みたいに、私は何度も首を縦に振った。

「あんたは、生きてる。」

 力強く抱きしめてくれる母に身を委ねて、私はまた力尽きるまで泣き喚いた。
 あの子の名前を呼びながら、泣き続けた。


(14に続く)

食費になります。うれぴい。