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【小説】想い溢れる、そのときに(5)

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あらすじと第一話




5


 ちょうど会社のゲートを通った瞬間に、終電発車時刻になった。
 腕時計だと正確ではないし、もしかしたらあと二分くらいはあるのかもしれないと、少しの希望を胸にスマホの画面を見てみたけれど、こちらも発車時刻の四十秒後を指し示していた。
 二日後のプレゼン資料を今日この時間まで作る必要がどこにあったのか、自分でもわからない。でも、手も頭も止まらなかった。そしてただただ、どっと疲れた。明日はなるべく定時に帰れるようにしよう。

 配車アプリでタクシーを手配すると、到着までの間にタバコを一本だけ吸った。
 気道を満たしていく煙が肺の奥深くまで染み渡ったあと、それを長く細く逆流させていく。鼻腔に広がるメンソールの香りと、吐き出されたタバコ葉の香りとが混ざり合って空に溶けていく。春先の肌寒さも相まって、さながら冬場の白い吐息みたいだ。
 けほっと少し咳をしてから、まだ燃え続けているタバコの先を眺めて、二回とんとんと人差し指で灰を落とす。先週、十数年ぶりに吸ったタバコは、何の味も匂いもしなかった。今日はしっかりと味わえているから、私は大丈夫。ちゃんと生活を続けられている。
 頭の中がゆったりと重みを増してきたころ、ハザードランプを点滅させながらタクシーが目の前で停車した。

「遅くまでお仕事、お疲れ様です。」

 おしゃべりそうな運転手が、目的地を告げるなり話しかけてきた。今までなら軽く返事をしたあと、なるべく話かけるなというオーラを出しながら目を瞑るところだったけど、今日は会話を続けてみることにした。理由は、自分でもわからない。

「今日やらなくてもいい仕事だったんですけどね。自己満足ですよ、ただの。」

「いやぁ、それほど夢中になれることがあるってだけで、うらやましいですよ。僕なんか、ただ車走らせるだけの簡単なお仕事ですからね。」

「ははは。いやいや、そんな。めちゃくちゃ助かりますよ。いなきゃ困る仕事ですって。」

 慣れた様子の自虐ネタにも、しっかりと笑って返す。

「結構泊まりでとか、多いんですか?」

「私の仕事ですか?いやぁ、泊まりはないかなぁ。私自身、終電逃したの久しぶりですし。」

「あ、そうなんですか?」

 そっかそっかぁ、と独り言のように口にした後、運転手は話を振らなくなった。暇つぶしにもう少し会話をしたかったのにと思いながら、自宅マンションに到着するまでの間、駆け抜けていく外の景色をぼうっと眺めた。
 途中、窓開けますねと運転手が言って、ひやりとした外の空気が車内に滑り込んできた。湿り気を帯びたそれは、冬の乾いた空気とはまた違った匂いを届けてくれた。

「しっかりお風呂で温まって、疲れ取ってくださいね。」

 会計を済ませると、運転手は言った。ありがとうございますと明るく返したけれど、心の中では「一日の終わりに無理をし過ぎたな」と、自分で自分にツッコミを入れた。やっぱりいつも通り、目を瞑っておけばよかった。疲れが増した気がする。

 家の中はひやりとした外の空気とは違って、昼間の陽射しの暖かさをまだ抱え込んでいるようだった。
 手を洗った後、寝室とは反対の部屋のドアを開く。明かりを点けると、壁に飾られたTシャツやタオルが目に入ってくる。あの子が好きだったバンドのライブグッズだけど、結局まだ曲を聴いたことがない。どんな歌を歌っている人達なのだろう。グッズを見る限りだと、ロックとかそういう激しい感じな気がするけど。

 一回大きく深呼吸をしてから、クローゼットを開ける。薄い桜色をしたモコモコのパジャマを手に取って、私はそのままそれに着替える。あの子の匂いがまだ残っていることに安心する。勝手に着ないでって、絶対怒ってるだろうな。

 ふふっと笑って、私はそのままあの子のベッドに潜った。

 昨日進めておいたお陰で、今日の仕事は予定よりも大分進んでいた。これなら今日は一時間くらい早く退勤できるかもしれない。我ながら極端な働き方だとは思うけど、早めに帰って明日の企画プレゼンに向けて自宅で練習もしたかったのでちょうど良かった。

「あの、すみません高木さん。」

 同じチームの後輩の後藤くんが、おずおずと訊ねてきた。

「ん?何?」

「この資料なんですけど、十九年の分が棚に無くて。」

「あぁ、多分この前整理してたからなぁ。総務の人に聞いてみた方が早いかも。棚に置くの、二年分までに変わったらしい。」

「そうだったんですね。わかりました、ありがとうございます。」

 質問が終わった後も、後藤くんはしばらくその場で私をじっと見てきた。

「え、何?」

「あぁすみません。あの高木さん、最近ちゃんと家帰れてますか…?」

「毎日帰ってるよ? え、どゆこと?」

 笑いながら返しても、後藤くんは神妙な顔をしたままだったので、あぁそういうことかと思って自分からあの子の話をした。

「あ、あれ? 娘のこと? もう大丈夫だよ。むしろ事故相手の運転手とか、保険会社とのやり取りとか、そういうので本当手いっぱい! 落ち込む時間とか正直無いのよ。こっから示談も始まるけど、弁護士にも相談しなきゃだしね。葬儀費用とかも一緒に請求してやりたいし。私は闘うよ〜?」

 ふっと少し笑った後、後藤くんはまた心配そうな顔でこちらを見た。

「あの、本当無理しないで下さいね。高木さんのことみんな心配してますし。その、ゆっくりするのも必要だと思うので。いっぱい寝たり、お風呂入ったり。」

「ありがとう、心配してくれて。優しい後輩持てて嬉しいよ。」

 後藤くんはお辞儀をしてから自分のデスクに戻っていった。



 お昼ご飯を買う前にトイレへ行った。用を足していると、同じ企画部の森さんと小高さんが話しながら入ってくる音が聞こえた。

「明日のプレゼン会議、何時からだっけ?」

「十四時。高木さんの企画でしょ? 多分うちら援護射撃とかしなくても普通に通るでしょ。」

 自分の名前が出てきて一瞬ドキッとしたけど、特に何て事のない会話内容にほっとした。二人とも陰口を叩くタイプの人達ではないけれど、こういう場面はやっぱり緊張する。
 流すボタンを押そうとした時、会話の続きがボソボソと聞こえてきた。

「そういえば、どうなった? 臭い問題。」

「全然。なんも解決してない。」

「そっかぁ。割ときついね。私デスク離れてるからそこまでじゃないんだけど。」

「きっつい。マジできつい。」

「言った?」

「いや言えるわけなくない? 普通に臭くても言えないのに、今の状態の高木さんにさぁ…」

 何の音も出してはいけない気がした。息を潜める必要はなかった。自然と止まっていた。

「エアコンの風向きによって変わるのよ、臭いの方向が。」

「風向き超わかる! あと強とか急とか絶対無理だよね。」

「香水とか化粧品の匂いもきついと嫌じゃん? 私部長のスーツから臭ってくるタバコの臭いも無理なんだけど。でもそれすらまだましだったのかなって。」

「近くだと大変だね。」

「でもまぁ、私高木さん自体は好きだし。しごでき女っていいじゃん? あれでシングルマザーやってたんだから尊敬しかない。だから余計になんか、可哀想ってゆうか。」

「普通に心配だよね。全然化粧もしなくなってるし。」

「そう、普通に心配。でも臭い問題は、それはそれで別。私の生死に関わるし、仕事集中できないし。帰りそれとなく温泉誘ってみようかな。荻窪にあるよね。」

「てかこの前後ろ通った時、マジ新宿って思った。」

「新宿! ヤバいその言い方!」

 化粧直しが終わったのか、二人はそのまま笑いながらトイレから出た様子だった。
 遠退いていく声に耳をすませながら、私は少しずつ呼吸をし始めた。小刻みに震える指に力を入れてボタンを押すと、トイレの流れる音がいつもより何倍も大きく聞こえる。
 そして水の音以上に、先程まで聞いていた会話の方が何十倍も大きく頭の中に響き続けていた。


 お風呂なんて、もう一週間は入っていない。化粧もずっとしていない。


 でもそんなの、しょうがないでしょ? あの子の匂いが消えちゃうんだから。
 仕事だって、どんな状況でも続けていかないと。いつまでも休んでられない。生活していかなきゃ。私は生きてるんだから。
 でもそれがしょうがないで済まされないなら、周りに迷惑になってるなら、そしたら私、どうしたらいいの?
 あの家で一人、どうしたらいいの?


 そのまま夜になるまで、私は怖くてトイレから出ることができなかった。


(6へ続く)

食費になります。うれぴい。