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【小説】想い溢れる、そのときに(12)


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第一話とあらすじ





12


 ほぼ毎日のように、丸子(まん丸の子供だからと、気づいたら母が名付けていた)は花をベランダに置いて行った。ちょうど私が煙草を吸う昼過ぎにやってくるものだから、その花を私が拾って花瓶に生けるのがルーティンとなっていった。
 丸子の持ってくる不思議な形の花を調べると、「オダマキ」という名前であることを知った。紫色のものが日本では主流のようだけど、西洋オダマキは品種改良が進んでいて様々な色があるそうだ。この赤いオダマキも、きっと丸子がどこかの家で育てられたものを勝手に摘んできているのだろう。盗品を毎日持ってこられるのもあまり良い気はしないけど、それでも可愛らしい小ぶりな姿形を、私は気に入っていた。
 起き抜けの煙草を吸うためにベランダに出ようとすると、今日は丸子も花と一緒に寝転がっていた。ちょうど左足のサンダルが丸子の体の下敷きになっていたので、私はベランダに出られなかった。丸子は薄目でちらりとこちらを見たあと、すぐに顔を背けて昼寝の体勢に戻った。無理やりサンダルを引き抜こうかとも思ったけど、伸びきった体全体を使って春の陽射しを楽しんでいる様子を見て、何となく邪魔をしてはいけない気がしてしばらくその場にしゃがみ込んだ。触っても大丈夫だろうか。爪を立てて攻撃してこないだろうか。恐る恐る手を伸ばして背中のあたりを撫でてみたけれど、丸子は特に何も反応することはなかった。
 その日はもう煙草を吸うのは諦めて、私は丸子が目覚めるまで体を撫で続けた。

「また今日も来てたんかに?」

 食卓の花を見ながら、母が少し嫌そうに聞いてきた。
 日によってまちまちではあったけど、ここ最近母が仕事から帰ってくるまでに、私はご飯を炊いておくようになった。居候の身なのだから、本来であればおかずまで作っておくべきなのだろうけど、そこまでの気力はまだ湧いてこなかった。ただ、母が帰ってくるよりも前に起床して、お米を炊けるくらいに戻ってこれた自分を、今は少しでも褒めてあげたい気分だった。

「うん。また同じ花。」

 母がささっと作ってくれたすいとん汁を装いながら、私は今日の丸子の柔らかな背中を思い出していた。

「まぁ別に、いいんだけど。居着くようになっちゃうと困るさぁ。」
「今日寝てたよ。」
「え? じゃあ、いますでっこ餌くれって言い出すんね。ダメだかんね、餌は。」

 あげないよと溜め息混じりに答えつつ、もし丸子がうちを気に入って入り浸るようになるなら、それはそれで良いのでは?と思った。少なくとも、今の私にとっては母以外に交流を持っている唯一の生き物だ。丸子が花を持ってこなくなったら、私はまた逆戻りしてしまうような気がした。

「花持ってきてくれるんは可愛くていいけど。」
「なんか毎日お供えされてる気分だけどね。」
「あぁね、お供え。」

 母の作る親子丼はめんつゆだけで味付けしているはずなのに、私は何度挑戦しても同じ味にならなかった。一体何が違うのだろうと、毎回分量を変えたり調味料を足したりしたけれど、この味に近づけることすらできなかった。

「でもこの味が変わったら、それはおばあちゃんの親子丼になっちゃうから。お母さんの親子丼はこれってことじゃない?」

 いつかのあの子の声がしても、心が乱されることが少なくなった。もちろんどうしようもなく鼓動が駆け上がっていくこともあるけれど、以前に比べると冷静に思い出を振り返る瞬間が増えていた。
 そしてそのことが、私を余計に焦らせた。あの子は確実に私の中で思い出に変わりつつある。次第にあの子の実感が薄れていって、そのうち私の中で作り上げた虚像のあの子が、あたかも本物みたいな顔をして居座り始めるんじゃないか? 虚像を有難がって、改変された思い出の中で心を動かされ続けたら、私はいよいよ本当のあの子のことを思い出せなくなるかもしれない。
 少しずつ日常に戻れている実感が増すたびに、私はこの抗えない恐怖に押しつぶされそうだった。

「…ねぇ、そろそろ一緒にまなちゃんとこ、行ってみんかい?」

 母が神妙な面持ちでそう言うと、私のすべてが停止してしまった。箸を持つ手はおろか、呼吸さえも止まってしまった。

「ずっと行ってないさぁ、墓参り。せめて仏壇に手合わせるでもいいだけんど、やっぱり行ってあげたほうが良いさね。」

 固まったままの私に向かって、母はまっすぐにこちらを見ながら続けた。

「最近、やっとこさあんたの雰囲気が変わってきたなって。そいだけでかなり安心したんべよ。まださむしいかもわからないけど、そろそろ、いいんじゃないかなと思ってさぁ。」
「…行きたくない」

 喉の奥にたくさんの感情が押し寄せてきて、上手く言葉を吐き出せなかった。それでも振り絞ってみると、私は母の提案を拒否していた。

「まなちゃん、あんたのこと大好きだったんだに。私から見てもそれはなっから伝わってたいね。母親が供養に来てくれないんは、可哀想さぁ。」
「く、よう…?」

 供養って、なんだ? それはあの子にとって必要な儀式なのだろうか。だってまだあの子は

「そうだいよ。…ねぇ、まなちゃんはもう、死んじゃってるんだべよ? 」

 違う。まだあの子は私の前に現れる。だってまだ、思い出になり切れていない。薄れてなんかいない。本当のあの子を思い出せる。供養なんてしたら、それこそ本物はいなくなってしまう。まだここにいる。
 喉の奥で鈴を転がすような優しい声も、細くしなやかな髪も、大きくなっても変わらない静かな寝息や、保育園でお友達と喧嘩したときに左の脛に付けた消えない傷、いつの間にか私とは別のものを使っていたボディクリームの香り、右だけ減りの早い靴底、爪を切るときは必ず開いたままになる口。あの子の全てが私の中にまだたくさん残っていて、それを思い出せない日はない。まだあの子は

「そいだからちゃんとお葬式の後も手合わせてあげんと。」
「…そんなこと、言わないでよ。」

 母の真っ直ぐな目を見ることができないまま、私は俯いた。やっと落ち着いてあの子のことを思い出せるようになれたと思っていたのに、母の言葉をここまで全力で拒否してしまう自分に失望した。全然ダメじゃないか。私はまだ何も整理がついていない。娘の死なんてとっくに理解はしている。本気でまだ生きているだなんて思っていない。
 それなのに、他の人から言われると、どうしても否定したくなる。母だって、娘よりも先に孫を亡くしているのだから、私と同じような心境になったはずなのに、どうしてこんなにも差が生まれるのだろう。自分の頼りなさが情けなくて、できることなら私はこの場で砂漠の砂みたいに風に飛ばされてしまいたかった。

「ごちそうさま。」

 落とさないようにゆっくりと箸を置いて、私は席を立った。震える手を抑えようと、強く腕を組んで腹部をぐっと抑え込んだ。体の芯に力を入れないと、よろめいて倒れそうだった。

「ねぇ早紀、したらこいだけは約束してくれん?」
「何…?」
「トイレ、鍵閉めんでほしい。」

 想定外のお願いに、私は思わず目を見開いて母の顔を見た。

「もし、万が一ね? あんたがまなちゃんとこ行こうとしたら、連れ戻せんくなっちゃうから。…お願い。」

 眉間に皺を寄せながら、必死に涙を堪える母の顔に見覚えがあった。でもそれがいつ見たものなのかは思い出せなくて、もしかすると私はこれまで様々な場面で母にこんな顔をさせてきたのかもしれない。私があれだけあの子のことを細かく思い出せるのだから、広いとは決して言えないこの家で一緒に暮らしていて、母が私の腕の傷に気づかないわけがなかった。
 私にとってのあの子は、母にとっての私だ。

「わかった。」

 小さく返事をして、私はそのまま家を出た。


(13に続く)

食費になります。うれぴい。