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【オリジナル小説】リューズを巻いて

 その日は晴天だった。清々しいほどに晴れていて、蝉の声が響き渡っていた。

 私は持ってきた紙袋をカウンターに置いてから、窓を一つ一つ開けた。それでも熱い空気が駄々をこねるように居座り続けている。

 じわりと額にかく汗を手で拭う。こんな風にはしたなく拭ってはお行儀が悪いかしら。そんなことが頭を過った。それでも、鞄の中に入っているハンカチを引っ張り出す時間などなかったのだから仕方がないと、私は一人開き直る。

 大粒の汗が手から滑り落ちる。そこから自然と連想されたもの。それは忘れかけていた涙だった。

 私はもう随分長く泣いていない。心をどこかに置き去りにしてしまったかのように、イタズラ好きの悪魔に奪われてしまったかのように、私は涙を流すことができなくなってしまった。

 左手首につけた手巻き式腕時計の針はもう随分前から動いていない。私の心と同じだ。私自身を映し出す鏡のように、動くことを止めて、ひっそりと時の流れから置いていかれている。

 カウンターの前に置かれた椅子に私はそっと腰を下ろして、店内をゆっくりと見回す。

 そこは店と言うにはあまりにも殺風景だった。誰もいない。何もない。ただ白い棚に大振りの窓といくつか小窓があるだけだ。

 それでも私はここを店と呼ぶ。例え、商品が一つもなくても。お客さんが一人もいなくても。セラムという店の名前を印した看板が取り外されても。そして、あの人がもうここにいないとわかっていても。

 目をつぶるとあらゆる思い出が走馬灯のように駆け巡った。全てが鮮やかに色を灯して私の元に戻ってくる。今は何もないこの店も、私の頭の中では色であふれているのだ。

 初めてこの店に足を踏み入れた時のこと、よく覚えている。白い内装の店内に並べられた色とりどりの商品。ずっとこのお店に入りたかったのに勇気が出なかったこと。お洒落で目映くて、私には不釣り合いなお店だと思っていた。

 カランカランと鳴る鈴がついた扉。あの扉を何度開こうと思ったことか。そして、何度諦めたことか。一歩踏み出すことに対して、田舎で野生児のように育った私が珍しく物怖じしていたこと、手に取るように思い出すことが出来る。

 つかない決心に苦しんでいたのが、ある日を境に変わった。私は川に水が流れるのと同じように、自然にいとも簡単にセラムへと足を踏み入れた。そして、初めてお店に入れた時の嬉しさは子供の時に味わったような未知で甘美なものだったことも胸の内に漏らすことなく刻まれている。私は噛みしめるように一つ一つ丁寧に記憶を呼び覚ます。




 秋。長袖のブラウスとスカートの上に青紫のカーディガン一枚を羽織っていた。それだけだと肌寒さを感じるくらいにその日は僅かに冬の匂いがした。朝は特にそうだ。冷たい風が体をくすぐる。

 すべては偶然が折り重なって起こった。駅に向かうためにいつもセラムの前を通るのだが、あの朝はまさに奇跡の朝と言っていい。

 セラムの前を通る時、私はいつも歩調を緩める。ちらり視線を店に送ると、大振りのガラス越しに店内が見えた。棚の中、お洒落な文房具や雑貨が置いてある。一つ一つ顔の違うテディベアに、トートバックやブックカバー。女心をくすぐるものばかりが揃えられていた。

 いつも決まって思うことが一つ。一番奥のショーケースの中には一体何が置かれているのだろうということ。外からではあのショーケースの中身を見ることは出来ない。こんなにも気になるのに。私はどうしたってセラムに入る勇気が出なかった。

 なんで? と言われれば、おそらくあれらは自分には似合わないものであり、自分の住む世界とは違う世界のものであると決めつけていたからだろう。

 OPENという札を提げた扉。手の届くところにあるそれは、私には何段も重なる跳び箱のてっぺんのように思えた。到底飛べない。届かない。また今度。だけれど、いつの日かきっと入れますように。心の中、私はいつも小さく願う。その日もそうやって、神頼みに自分の弱さを棚に上げた。ガラス越しに映る世界はこんなにも素敵なのに、ガラスに反射して見えるそんな自分の姿が惨めに思えてならなかった。

 セラムの扉をちょうど横切るところで事は起こった。

 カランカランカラン。セラムの扉の鈴が鳴る。ひときわ大きな音にびっくりしてそちらを見ると、私の視界は真っ白になった。息が詰まって、体全体に弾き飛ばされるような衝撃を受けた。僅かに悲鳴を上げる。

「ごめんなさい」と謝ったのは男の人の声だ。彼の力強い手が転ばないようにさりげなく私の背を支えてくれた。そうしてようやくこの男の人とぶつかったのだとわかる。

 彼は私の無事を確認するや否やすぐに駅の方向に風のように走って行った。一瞬だけ見えた彼の横顔はとても必死で、私の知る由もない何かで頭が一杯のようだった。他のことに構っている余裕なんてこれっぽっちも持ち合わせていないことだけが見て取れた。私は遠ざかる彼の背を少しの間、見送るように見つめた。

 朝の通勤ラッシュに歩みを進める人を見て、ふと目が覚める。こんなところでゆっくりしている暇はない。仕事に行かなくては。

 歩きはじめようとして、アスファルトの地面に光り輝くものを見つけた。銀色の鍵。あっと、声をあげる。これは多分ぶつかった拍子にさっきの男の人が落したものだ。私は彼を呼び止めるために、咄嗟に駅の方角を見た。しかし、彼はもう視界にはいなかった。

 いそいそと歩く人々の中、私はゆっくりと鍵と向き合った。どうしよう。そうだ。どこかにこれを届けよう。どこに? 警察? それとも……。

 手が少しだけ震えているのがわかる。そうして、朝の白い太陽の光を浴びて輝く鍵を手に取った。

 このどこにでもありそうな普通の鍵が私には世界で一番貴重な宝箱を開けるための鍵に見えた。

 鍵に付いているキーホルダーには写真が埋め込まれていて、二人の男女が仲も良さげに映っている。一人は先程の男性の顔。もう一人は知らない女の人。こちらが思わず微笑んでしまうような笑顔。私もつられて微笑んだ。目まぐるしいほどの毎日。こんなに自然と笑みが出たのは久々だった。

 鍵を握り締め、セラムに向き直る。一つ呼吸をして、一歩一歩扉に近づく。扉に手をかけると、木の滑らかな感触がした。もう一度、左手で握り締めた鍵に目を落とすと、写真の二人が笑いかけてくる。入ってごらん。大丈夫。そう、励まされているような気分。

 右手で扉をゆっくりと開く。カランカラン。鐘も控えめに鳴った。私の心をそのまま映し出すようだと思った。おっかなびっくり。それでいて浮足立つ。

 日の光が優しく入り込んでいる店内は想像していたよりも広かった。壁と同じ白い棚の中、色彩豊かな商品が誇らしげに並んでいた。淡いピンクの手鏡、白い砂が入った砂時計。大小兼ね揃えられたノートの模様はそれ自体が芸術的で、それでいて私のような一般人にも馴染みやすい柄だった。流れるオルゴールの音楽はどこかで聞いたことのあるクラシック。冷たい外とは違う空気がセラムの中には流れている。

 この店をトータルで見ると、大学時代に訪れたフランスの雑貨屋さんを思い起こさせた。そう思えたのは恐らく棚の中に真新しいものだけではなく、少し使い古されたような味のある商品も並んでいたからだろう。

「いらっしゃいませ」

 男性の柔らかい声が聞こえて、息を呑む。そうだった。あまりの感動に忘れていたのだが、私はこの鍵をこのお店の人に渡しに来たのだ。きっとあの男の人も無くした鍵を探す過程でこの店にも当たるだろうから。

 男性のいるカウンターに俯きがちに歩んでから少しだけ上を見ると、背の高い好青年と目が合った。私と歳はあまり変わらないくらいだろうか。全体的にほっそりとしていて、鼻が高く、黒い髪の毛が光に当たって茶色く見えた。

「あの」

 情けないくらい小さい私の声。

「これ、このお店から出てきたお客さんが落としていきました」

 青年はにっこりと笑う。大きな目が笑うと線のように細められるのが印象的だった。今日は笑顔に救われてばかりだ。いいんだよ。ここに来たこと、だから後悔しないで。そう言われているような気がした。この青年の笑顔。飲食店やコンビニで見る作り笑いとは違う。見ているだけで、森林の新鮮な空気を吸うように私の気持ちもすっと軽くなる。

「その鍵を落としたのは、もしかして男の人ですか?」

「はい。呼び止めようとしたんですけど、ものすごい早さで走って行ってしまって」

「そうですか。ではとりあえずはこちらで預かっておきましょう」

 差し出される手。私の手を包んでしまえるほどに大きい手だった。私は鍵を青年に手渡した。受け取ってから、彼はじっと鍵を見つめていた。きっとこの人もあの写真に気が付いたのだろう。私はそっとキーホルダーを指差した。

「羨ましいですね。こんなに仲が良さそうで。でも、これを他の人に見られたら少し恥ずかしいかも」

「そうですね。でも、こんな風にキーホルダーにするほど相手のことが好きなんでしょうね」

 ふっと視線が合う。彼の目。典型的な日本人の瞳の色と同じブラウン。不思議とずっと見ていたくなる瞳だった。

「落し物を拾ったのはラッキーでした」

 私は口走るつもりのないことを口走っていた。自然とぽろりと口から出た声に自分でもびっくりする。私の言葉に彼も驚いたようで、目を大きく見開いた。

「何故ですか?」

「このお店にずっと入ってみたかったんです」

「気軽に入って頂ければ良かったのに」

「お洒落なお店ってなんかこう……場違いな気がしてしまって入りにくいんです」

「なら、きっかけを作ってくれたこの鍵に感謝しなくてはいけませんね」

 真剣に、茶化すこともなくそう言ってのける青年。あの時の彼の顔も、私の高鳴る心臓の音も、陽だまりの中に微睡むような幸せな気持ちも、今でも忘れることなく心の中に閉じ込めてある。


 セラムに置かれていた商品の中で最も目を惹くのが、ガラスのショーケースの中央に堂々と置かれている時計だった。まるでそれが冬景色の中に咲き誇る一輪の椿のように堂々と在った。時計の中、花の模様にガーネットとピンクダイヤとが散りばめられている。デザインは全体的に派手すぎず、控えめすぎず、ほどよく品がある。

 値段は給料二か月分。簡単に手に入るような代物ではない。それでも、私はなんとかやりくりしてこの時計を買うためのお金を溜めはじめた。

 仕事が終わってから日課のようにセラムを訪れてはショーケースを覗き込んだ。

 私のようなお客は珍しかったのかもしれない。私がショーケースに張り付くと、好青年の彼が話しかけてくるようになった。最初は他愛ない世間話。そうして段々とお互いのことを口にするようになった。

 青年の名前。橘(たちばな)真咲(まさき)。「真」に「咲く」で真咲。前店主の彼のお祖父さんがつけてくれた名前らしい。

「真咲くん」

 彼の名前。声に出すと彼はにっこりとほほ笑んで返事をしてくれる。それが無性に嬉しかった。

 好きなもの紅茶。特にセラムから徒歩二分圏内にあるお店がお気に入り。

「びっくりした。私もあそこの紅茶が好き。特に……」

「ミルクティーが?」

 私が言う前に、真咲くんは得意げにそう言った。私は咄嗟に彼を見上げる。

「そう。なんでわかったの?」

「なんとなくっていうのが半分。あとは僕もあそこのミルクティーが一番好きだから」

 今度、あそこのミルクティーを買ってこよう。真咲くんの分と、そして私の分も。肩を並べてほっと一息つく。そんなひと時があったとしたら幸せな気分になるに違いない。

 ミルクティーの他に、彼に関して驚く事実がもう一つあった。

 真咲くんこそが、セラムの店主兼経営者だったということ。このことを初めて聞いたときは、息が詰まった。

 彼は一人で店を守っている。歳も私と大差がなさそうなのに、このほっそりとした体に計り知れない技量と経営能力が詰まっていると思うと不思議でならなかった。なにより、彼自身が光り輝いているように見えた。そんな彼が羨ましくもあり、尊敬に値する。

「ものとの出会いは人の出会いと同じ」

 真咲くんはカウンターに置かれたハチミツのキャンディを補充しながら静かに言った。このキャンディは私も何度か貰ったことがある。本当は買い物をしたお客さんにしか渡していないのだが、彼は時折、私にそっとこのキャンディをくれるのだ。真ん中にたっぷりとハチミツが入っていて、舐めていると口の中にとろけるように広がる。これがまた癖になる。

「その時、そのタイミングでその商品が手の内に来るということ、僕は何か意味があると思っているんだ」

 この赤い時計はどうなのだろうか。誰の運命と結ばれているのだろう。私はショーケースの中で相も変わらず目立っている時計を見つめた。まだまだこの時計を買うまでの額には及ばない貯金。他の人に買われる前になんとしてでも手に入れたい。胸のあたり、焦る気持ちを抑える。

 この時計が欲しいという思いを私は真咲くんに伝えていなかった。言ったところで、この時計が自分のために取り置きされることはない。その思いはたった今、彼から発せられた言葉を聞いて、なんとなくから確証へと変わった。赤い糸の先、繋がる運命を彼は大事にしている。愛おしく数奇な運命に彼はきっと逆らわないだろう。

 ショーケースの前、立ち尽くす私の隣に真咲くんは肩を並べた。

「この時計のこと、少しだけ話してもいい?」

 私よりも頭一つ背の高い真咲くんの顔を思い切り見上げる。

「うん。聞きたい。興味あるから」

「はい。これ、どうぞ」とハチミツキャンディを一つ私に手渡し、彼は続けた。

「この時計は実を言うと、僕がこのお店を継ぐ時に祖母が置いてくれたものなんだ」

「つまり、元々は真咲くんのお祖母さんの持ち物なの?」

 真咲くんは軽く頷いた。

「祖母が、結婚した時に祖父から貰ったものなんだよ。祖母はこれを片時も離すことなく持ち歩いていたくらい大事にしていた。祖父が他界して僕が店を継ぐことになった時に、突然祖母が店に来てね。『二人の時間を刻む時計なんだから、片割れのいない私には相応しくないのよ』って言ってこのショーケースに置いて行ったんだ。僕は反対しようとしたんだけどね、有無を言わせぬ感じだったよ」

 彼は懐かしげに時計を見つめて口元に弧を描く。

 勿体ない。私はそんなことを思った。でも、その言葉を口にしてはいけないような気がした。それはきっと真咲くんのお祖母さんの考えを侮辱する言葉だ。

「でね、鑑定してみたらこの時計は思ったよりも高価なものだった。値段が値段だから、買いたいなんていう物好きさんもいないみたいで、今ではこの店の守り神のごとく居座っているというわけ」

「真咲くんはこの時計を自分で貰ってしまおうとは思わないの?」

 私の言葉に彼は首を横に振った。

「祖母の考えを尊重したいから、それはしないよ」

 この時、この瞬間に私は思っていた。この時計との運命。赤い糸はきっと自分の腕とつながっている。直感のように感じられた。だって私はこの時計のこと、こんなにも知ってしまった。私が持たずして誰が持つのだ。一種の使命感のような感情が湧いた。


 お気に入りの青紫のカーディガンだけではもう外は歩くことが出来なくて、その上にコートを羽織っていた。紺色の控えめな色。それでも頬を切るように冷たい風は容赦なく私を襲う。

 走る私はまるでスターダストのようだった。キラキラと輝いて、白の寒椿が咲き誇る道を通り抜ける。巻いたマフラーが解けるごとに、寒さよりも鬱陶しさが勝る。

 少し早いけれど自分へのクリスマスプレゼント。私はもう少しで手にすることが出来る。

 この日がどれほど待ち遠しかったことか。そして、どれだけ仕事に打ち込んだことか。他の人の仕事を肩代わりして残業代を貰ったり、こつこつと仕事に打ち込んだりしたお蔭で思ったよりも早くお金が貯まった。今朝、通帳を見て私は思わずにっこりとほほ笑んだ。これであの時計が買える。

 仕事を始めて、お金を溜めてまで何かを手に入れたいと思ったのはこれが初めてだった。だから、通帳に刻まれた数字が余計に血と涙の結晶のように見えた。私の努力が目の前で綺麗に単調に、しかし確かな熱をもって数値化されている。

 ここ一週間は仕事も忙しくてなかなかセラムに行くことが出来なかった。真咲くんにも、だから一週間ぶりに会うし鐘の音も長らく聞いていない。一週間という時間が今の私にとってはこんなにも長い。

 車通りの多い道に出て、信号に当たる。青。今日はついている。何もかもが私に味方している気がした。

 私は駆け込むように、思い切りセラムのドアを開ける。カランカランと鳴った鐘はとても元気な音だった。私をきっと祝福してくれているに違いない。

「こんにちは」と真咲くんに伝えると、私はすぐにショーケースに向かった。新しく入荷された新商品には目もくれず、店内を飾るクリスマスのイルミネーションにも見向きもしなかった。ただ真っ直ぐにショーケースへと足を運んだ。

「あっ」

 発した声はその一言だった。私はショーケースを見て青ざめた。

 あっ。ない。あの赤い時計がどこにもない。

 ショーケースの中を隈無く見る。私は自分の目を疑った。時計のあった場所はぽっかりと何か大事なものを失ったように虚しい空間が出来ていた。そんなわけない。あの時計は私の腕と赤い糸で結ばれているはずなのに。

「売れちゃったんだね……」

「ほんのさっきお客様が買っていかれたよ」

 売れてしまった。買われてしまった。そういう言葉を使わないのが真咲くんらしいと、どこか冷めた頭の片隅で思う。あの時計が売れたこと、彼はちっとも後悔していない。そして、彼の言葉一言で私は重い現実をつきつけられた。同時に、時計を手に入れたのは一体どんな人間なのだろうかと、考えずにはいられなかった。

「そのお客さんはどんな人だったのか、聞いてもいい?」

「結婚を間近に控えた女の人」

 時計は愛し合った二人の元へ。真咲くんのお祖母さんが望んだように新たな二人の時間を刻んでいくのだ。納得し始めている自分と、やりきれなさがせめぎ合う。

「そういう……巡り合わせだったのかな」

 強がりのような、負け惜しみ。

 ここ数ヶ月の間一心に頑張ってきた自分。人魚姫が泡になるように、私の思いも泡となって弾け消えた。人生は本当に思い通りにいかない。それにこんなにも呆気ない。

「あの時計、私も狙っていたのにな」

 真咲くんは無言だった。きっと彼だって感づいていたはずだ。毎度、ショーケースでじっとあの時計を見つめていた私を彼は知っているのだから。

 ぎゅっと口に力を入れる。胸に込み上げる思いを堪えるように。「その顔は不細工だから、人前ではやめなさい」と母に言われたことがあった。多分、今私がしている顔はそんな顔だ。

 ねえ、と真咲くんが私に声をかけたのは沈黙が続いてから数分してからだった。

「僕とゲームをやらないかい?」

 一体なんのことだろうか。私はわけもわからずに俯いていた顔を上げた。

 やっと、ショーケースから目を離すことができた。

「ゲーム?」

「うん、そう。ルールは簡単。セラムの名前の由来を当てて。当てることができたら、君に合った商品を一つ仕入れてきてあげる」

「私が負けたら?」

「一つだけ僕のわがままを聞いて」

 悪い話じゃないと思った。真咲くんのセンスは認めているし、時計を買うために貯金したお金を何か他のもっと良いものに変えることができるのなら私の気持ちも少しは晴れそうだ。

「その話、乗ります。私が勝ったらきっとあの赤い時計に負けないくらい素敵なものを仕入れてきてね」

「決まりだね。一つはヒントを教えようか?」

 貰っておくには越したことがない。頷くと、真咲くんは続けた。

「この店の中にあるよ。きっと君なら見つけることができると思う」


 セラムの由来を当てる。私と真咲くんの間で、現在進行形で執り行われているゲーム。

 まずはセラムの言葉の意味を調べることから始めた。

 辞書やネットで調べて初めてこの言葉がフランス語であることを知った。意味は花言葉。もともとはフランスで好きな相手に花を贈り、返事もまた花で返すという風習をセラムと言ったらしい。

 セラムの店の中、花に関するものがあったかと考える。確かに商品に時々花のデザインのものがあるが、他に目立つ花関連のものと言えば挙げるものがなかった。仕入れた商品に花の統一性は見られず、色とりどりの花が模様の中やノートの上、栞や、ボールペンに咲き誇っている。そのほとんどが漠然とした、特に名前のない花だった。

 店内にはというと、特に生花が飾られているわけでもないし、飾られているのも一度も見たことがなかった。

 次に真咲くんのヒント通り、店の中を観察する。商品一つ一つを観察して店内の装飾にも気を配る。木も葉も枯れた殺風景な外とは裏腹に、店は賑やかなイルミネーションで彩られている。統一感があって、青と白の小さな蛍光灯がツリーを一層引き立てていた。

 冬シーズンの今、店の出入り口に一番近いところにはクリスマス商品のブースが新設されている。プレゼントに囲まれたテディベアを閉じ込めたスノーボウル。一目ぼれして思わず一つ買った。この商品は二・三日で売り切れて、一週間後には再入荷された。

「北欧に住んでいる友達伝いに仕入れたんだ」

 この商品一つ一つは全て真咲くんが一人で仕入れている。それだけでも驚きなのに、その商品がまた魅力的なのだ。

「真咲くんが仕入れる商品ってこう、どこか心をくすぐる。魔法にかけられたように、気がついたらレジに持って行って財布を開いているのが不思議」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。仕入れる時は本当に悩むから。取捨選択するのは苦しい」

「セラムでは質屋もやっているんだよね?」

 新品商品の中に堂々肩を並べる年季の入った一品はお客さんがセラムに売ったものだ。

「質屋っていうと悪い印象があるかもしれないけれど、世の中の考える質屋とセラムがやっている質屋とではわけが違うんだよ。どちらかというと中古ショップと言った方がしっくりくるかもしれない」

 真咲くんは新しくお客さんから引き取った商品を磨き、綺麗にしながら言った。それは切り絵のデザインの栞だった。猫と蝶が戯れているシルエットが可愛らしい。

「例えばこの栞。これはお客さんのお兄さんからのプレゼントらしいんだ。でも、お兄さんが他界してしまって、捨てたくはないけれど、かといって手元に置いておくには思い出が詰まりすぎていて辛い。だからこの店に置いてほしい。そう言って置いていったんだ」

 セラムにものを売りに来るお客さんはお金欲しさにものを売るのではない。大事なものを手元に置いておけなくて、でも、捨てるのは嫌。捨てるのなら、他の誰か、本当に欲してくれる人に使ってもらいたい。そういう思いでセラムを訪れる。

「自分が大切にしているものを手放すってどんな気持ちなんだろう……考えるだけで辛いような、悲しいような」

「中には辛そうな顔をしているお客さんもいるけど、比較的少ないと思うよ。ほとんどのお客さんは吹っ切れた顔をしている。ここに来るまでに既に沢山悩んでから来るんだと思う。だから、いざ手放す時には案外全て自分で納得しているのかもしれないね」

 大切だからこそ、次の人の手に託す。そして、その窓口となっているのが真咲くんだ。この人はただ商品を売るのではない。行く末を見守っている。

「そういえば、この前君が拾ってくれた鍵の持ち主がありがとうって言っていたよ。それとセラムの前で盛大にぶつかったんだってね? 怪我していないかって心配していたから、凄く元気ですって言っておいた」

 笑いながら私の頭に手を置く真咲くんに、何か一言言い返したかった。それなのに何一つ良い言葉が見つからないことが悔しい。

 そうして、私はあの奇跡の朝のことをそっと思い出した。思えば、あの男の人のお蔭なのだ。もう少し正確に言うとあのカップルのお蔭で私はこの店に入ることができた。考えれば考える程、数奇な運命だ。

「ごめんね。結構前に言われたことなのに言うのを忘れていた」

 彼のこだわり。別に言わなかったからといって何も支障がでるわけでもない。でも、そういう小さなことであっても彼は無下にしない。あの鍵の男の人の感謝の気持ち。別に私に届かなくても人生を左右するほどの大きなものではない。それでも、ほんのひと時でも私の心は晴れる。ぱっと雲間から太陽が覗くように胸のあたりが温かくなる。

 真咲くんはきっと私よりも一歩も二歩も先のものが見えている。私は彼が零していく価値観や世界観を拾っては一人、両手に抱え大切に包み込む。これは仲良くなった特権だ。

「真咲くん、伝言を教えてくれてありがとう」

 しっかり彼の顔を見てそう言うと、彼は照れたようにはにかんだ。それから、「ああ、そうだ」と少しとぼけたように真咲くんが言った。

「今度、あのゲームの答え合わせも兼ねて食事に行くのはどうかな?」

「私、今月はいつでも空いている。でももう少し考える猶予が欲しいから、できたら下旬辺りがいいかな……なんて思うんだけど」

「本当に? 本当にいつでも空いている?」

 真咲くんの疑いの目。私にはなんだかとても可愛らしく映った。

 思わず左手で口元を塞ぎ、クスリと笑う。これは私の癖で、なるべくやらないようにしていたのに自然と出てしまった。

「嘘なんてついていないよ。夜ならいつでも空いているから」

「先客がいたらどうしようかと思っていたから……良かった」

 外は寒いのに、私の体はどこかぽかぽかしていて、クリスマスを彩るキャンドルになったような気分だった。


 シャンパンの泡が絶え間なく上り、グラスの淵で弾ける。見ていて飽きない。むしろ、ずっと見ていたいくらいだ。窓の外、特に夜景が綺麗なお店というわけではないが、それでも町全体を見渡すくらいには高い位置にある。

 私はいつもより少しおしゃれに気をつかっていた。鮮やかな青のワンピースはかれこれ一年は着ていない。思い切って着たことを、待ち合わせの駅前に向かうまでに何度も後悔した。やっぱりやめておけば良かった。派手すぎるかもしれない。

 待ち合わせ場所の駅前で真咲くんと会ってそれからレストランに着き、コートを脱いでからもずっとそわそわしていた。私の気持ちを知ってかどうか、真咲くんは私を見て、茶化すことなく言う。

「そのワンピース、とても似合ってる」

 人の言葉というのは不思議で、それだけで私の心は満たされてしまった。ずっと否定していたのにそれがいとも簡単に覆る。言葉の力は偉大だ。特に……真咲くんの言葉は凄い。

 メイン料理の小鹿のステーキを頬張る。柔らかいお肉に思わず「美味しい」と声が漏れた。

「実はここ、セラムのお客さんのお店なんだ。先代の時からの常連さん。気に入ってもらえたのなら良かった」

 真咲くんの話にはたくさんの人が出てくる。商売上の問題もあるかもしれないが、それだけでなく、彼は一度結ばれた関係をとても大事にしている。私が推測したセラムの意味がもしも合っているのなら、あの店は人と人を花で繋げている。花冠の結びのように。

 食後の紅茶が運ばれてきたところで、真咲くんが切り出した。

「さあ、そろそろあのゲームに決着をつけようか」

 線のように目を細めて彼は微笑む。その顔に少しだけ違和感を覚えた。なんとなく、彼は絶対的な自信に満ちているようで不安になる。

「間違っているかもしれないけど……一応、精一杯考えました」

「うん。聞かせて」

「このお店の名前『セラム』はフランス語で『花言葉』という意味でしょ?」

「うん」という真咲くんはまだ続きがあること、知っているように一つ頷いて、続きを促すように私の目を見た。

「花言葉は花に込められた思い。セラムの商品はつまり花と同じで、それぞれ込められた思いを含有している。真咲くんは仕入の時、一つ一つ自らの手で選ぶよね。質屋の方で、お客さんが売りに来る商品には一つ一つ何かしら思い出が詰まっている。つまり、花言葉のように、あのお店の商品には思いが込められているということじゃないかな。時には真咲くんの、そして時にはお客さんの思いが。これがセラムの由来」

 真咲くんは嬉しそうに笑った。私はドキドキして、思わず答えを促してしまう。

「どう、かな?」

「うん。正解」と彼は確かに言った。

「やった」と私は声を出して、はっとした。出た声が想像以上に大きい声で、周りのお客さんがこちらに視線を集中させたのがわかって思わず下を向いた。

「じゃあ、もしかして私の勝ち?」

「実はもう一つ由来があるんだけどね、そっちはわかる?」

「え? もう一つ?」

 全く予想していなかった返答に私はうろたえる。

「うん、もう一つ。確かヒントを言う時にもチラつかせたんだけど、覚えているかな? 『一つはヒントを教えようか?』って」

 くすくすと笑う彼。ふくれる私。

「ちょっとだけ待って。考えてみるから」

 花。花言葉。商品。思い。仕入。色々と思い当たる言葉を並べてみた。でも、何も目ぼしいものは思い浮かばなかった。新しいアイデアすら絞り出すことが出来ずに、あえなく首を振り降参を唱える。

「悔しいけれど……わからない。思いつきそうにない」

「セラムのもう一つの由来は僕達の名前。僕の家は皆、花の名前から命名されるんだ。その花の花言葉が子に込められる思いなんだって祖父が言っていた」

「それがもう一つ?」

 少し非難の思いを混ぜてそう言った。だって、そんなのわかるはずがない。それに真咲なんて花があっただろうか。私がそれを言い出す前に真咲くんが口を開いた。

「僕の名前、漢字は違うけどちゃんと花なんだよ。柾。ニシキギ科で、花言葉は諸説あるみたいだけど、知慮、厚遇、信頼、あとは心の純潔」

 私はがくりとうなだれる。悔しさがじわりじわりと滲み始めた。

「セラムのことを知ることができて嬉しいけれど、ゲームは私の負けだね」

「そう。僕の勝ちだ。じゃあ、さっそく願いを聞いてもらってもいい?」

「敗者に口なしよ。もちろん。何でも言って」

「じゃあ、少しだけ目をつぶってくれる? あ、これはお願いだけど、お願いじゃないよ?」

 私は言われたままに目をつぶった。視界は真っ暗になったけれど、お店の光が瞼の裏に残る。黒の中にさっきまで見ていたキャンドルの明かりが散っていた。

「はい。目を開けて」

 すぐに声が聞こえて目を開けるとテーブルの上に小包が現れた。私は真咲くんの方を見る。

「開けてみて」

 水色地、青のドットに白くキラキラしたリボンが巻かれている。持ち上げてみると思ったよりも重くて中身が気になった。リボンを解くシュルッという音に心が躍る。

 箱を開き、中から覗いたものを見てはっと息を呑んだ。

「これって……手巻き時計?」

 中から現れたのは青と紫と白の三色で彩られた手巻き式の腕時計。花が水色と濃い青の石で形作られ、秒針の先につけられた蝶々が時間を示す。一目で気に入った。魔法をかけられたように、目が釘づけになった。

「うん。これは君のために仕入れた手巻き時計だよ」

 だから、真咲くんの言葉は堪えた。この時計は私のものになるべく、私のためにここに連れてこられたのに、私はゲームに負けてしまった。無残に散った敗者にはこの目の前に輝く時計を腕にする権利はないのだ。悲しいことに。

「これを君に貰って欲しい。これが僕の願い」

「私、負けたのに? こんな素敵なものを貰ってしまっていいの?」

 この時知ったこと。真咲くんは意外とロマンチストで、こういうサプライズが好きだということ。そして、謀ることに恐ろしく長けているということ。私は彼の策略にまんまと嵌っていたのだ。そう、引かれたレールの上を走るように、この結末は私がゲームを引き受けた時点できっとすべて決まっていた。

「いつもセラムに通ってくれる君に、僕からのクリスマスプレゼント」

 そう言って私の左腕に時計をかけてから、彼は手巻き時計のリューズを回す。秒針が二人の間でカチリカチリと音を鳴らし、動き始めた。


 困ったことが一つ。私は真咲くんに貰った手巻き時計の扱いに酷く慎重になり過ぎていた。調べてみると、リューズの回し方によっては時計を痛めてしまうということらしく、自分でリューズを回すことが怖くて堪らなかったのだ。Ⅲの隣にちょこんと出ているリューズに触れてはみるものの、動かすなんて到底無理だった。

 折角貰った手巻き時計のリューズを自分で巻くことが出来ない。そのことがなんだか恥ずかしくて、私はリューズを巻き忘れたふりをして今日もセラムに足を踏み入れる。

「またリューズを巻き忘れてる」

 真咲くんは私の時計を丁寧に優しく巻いてくれた。ゆっくり上に巻いて、そのままそっと下に戻して、また上に巻く。その繰り返し。私は手際よくやってのける彼の手をじっと見るのが好きだ。

「一回巻いて、その手を離さないままそっと戻す。こうすると痛まないんだよ」

 時計を労わるような優しい手つき。そのまま脳に刻む。

 早く覚えなくては。そう思うのにこうやって真咲くんが巻いてくれるから、私は甘えてしまう。

 二月になるとセラムにバレンタイン商品が並んだ。赤とピンクで華やかになる店内。この時期の商品は今まで私には無縁だった。特別に思う相手なんていなかったし、欲しいとも思っていなかった。でも、少しずつ気持ちに揺れがあること、気が付かないほど鈍感ではない。

「あとでまた時計巻いてあげるね」

 夕時。真咲くんはセラムを訪れた私にもう挨拶代りになった言葉を投げかける。彼はちょうど棚の商品補充をしているところだった。

「いつもありがとう」

 私はいつものように店内をゆっくりと歩く。

 バレンタインをどうしようかと考えながら商品を見ている自分に吹きそうになった。真咲くんが仕入れたものをあげるのは変な話だ。

 ふと視界の端をちらつくものが見えて私は商品棚から顔を上げる。

「あ、みぞれ。真咲くん、見て。みぞれ」

「本当だ」

 私と彼は二人とも大振りの窓に寄って外を眺める。窓の外は絵画のようだった。雪と雨の混じりあったみぞれがポツリポツリと落ちていく。落ちたみぞれは一瞬白くなってからすぐに透明になって、地面に溶け込んでいった。

 ここら辺では雪もみぞれも珍しくて、滅多に見ることが出来ない。久々に見たみぞれに私ははしゃぐ。

「ちょっと、待ってて」

 そう言って、真咲くんはコートを着込んだ。私は少しだけ動揺する。

「え? どこか行くの?」

「ほんの五分くらいだから。多分もう遅いから誰もお客さん来ないと思うけど、少しだけ店番していてくれるかな?」

「うん。いいけど……」

 どうしてこのタイミングで行ってしまうのだろう。私は彼を引き止めたかった。みぞれだってもしかしたら止んでしまうかもしれない。だからもう少しだけそばにいて、二人でこの空を眺めていたかった。

「大丈夫。すぐに戻ってくるよ」

「気を付けて」

 私の言葉に彼は手を振って応えて、セラムを出て行く。

 カランカラン。扉の音。彼が出て行った合図だと思うとまた心が沈んだ。

 私は一人になって、みぞれを見つめていた。真咲くんが帰るまでずっと降り続いてくれるように願いながら、空を見た。早く帰ってこないかな。そう思えば思う程、時間が経つのが遅く感じられた。


 そろそろ帰ってくる頃だろうか。そう思っていると、突然、ガシャンという大きな音がした。耳の奥を突くような甲高い音も混じって辺りに響く。

 外だ。外で何かがあった。私はコートも着ないでセラムの外に飛び出した。

 冷たい風が私の体を抜ける。私は白い息を吐いて、周りを見回した。セラムの面した道。少し先の信号の下。大型のトラックが横転している。

 ぞわりと嫌な予感がした。小さな破片がみぞれに混じって散らばる上を、私は走る。

 トラックをぐるりと回る。そして車の下に見えたものに絶句した。

 手だ。誰かの手。誰かが荷台の下敷きになっている。私はその手の元に駆け込んだ。そうして大きな手に見覚えがあることを悟ってしまった。

「真咲くん」

 私は近寄って叫ぶ。彼の名前。声が枯れる程に叫んで彼を引っ張り出そうと躍起になった。動く見込みのないトラックを押し上げた。これはきっと夢だ、悪夢だと、どこかで願った。

 近所の人が集まってきて、口々に何かを叫ぶ。誰かが私を、彼がいる場所から引きはがそうとする。それをすべて振り払い、私はよろけて倒れた。

 私の指先が何かに触れた。そしてその何かを弾き飛ばして、地面に手をつく。

 熱い。自分の手が火傷するかと思った。それくらいに触れたものが熱かった。何を触ったのだろう。反射的にそちらに目を向ける。そこにあったのは、カップだった。セラムの近くにある紅茶専門店の持ち帰り用の入れ物。

 そして、中から零れた液体が地面に広がっていた。甘い匂いが鼻をつく。ふんわりと鼻腔をくすぐるのはシナモンの香り。頭が痺れる。頭痛がする。これはあのお店のミルクティーだ。

 みぞれはいつの間にか降り止んで、私の悪夢だけを置き去りに、夢のように溶けて消えた。




 あの人に会って私の人生は大きく変わって、毎日が喜びに満ちていた。何もかもが輝いていて、私の日常はほんのり桃色に染まりかけていた。それなのに、今は白黒写真のように色を取り上げられてしまった。

 あなたに責任はない。そう誰かに言われた。それでも、私がそもそもこのお店に踏み入れなかったら、彼は今でも生きていて、セラムもこんな風にならなかったのかもしれない。

 カウンターに置いた紙袋の中から二つ、ミルクティーを取り出した。一つはカウンターに置き、一つは口元に持っていく。

 これを飲むのはいつぶりだろうか。久々すぎてもう味も覚えていない。ただ、私とあの人が好きだったのだという想いだけが私の中に渦巻いていた。

 シナモンの香りが鼻を通った瞬間、胸が締め付けられる思いがした。苦しくて、息が詰まった。ミルクティーを口に含むと、熱さにむせそうになる。

 シナモンの香りが私の想いを呼び覚ます。ひっそりと眠っていた感情の箱がひっくり返るように、私の中で溢れ返った。

 ただ二人であのみぞれを眺めていられれば良かったのに。

 もう一口、口に含むと、私は耐えきれずに涙を零した。

 あの人と二人、ただ肩を並べてこれを飲みたかった。そんなに難しいことじゃない。本当に簡単なことなのに、あなたがこの世にいなければ実現することができないじゃない。

 飲み続けるミルクティー。大好きなはずなのに、味一つしない。

 あの人の死は私から味覚までも奪ってしまった。

 拭っても、拭ってもバケツをひっくり返したように溢れる涙。ミルクティーが飲み終わるまでにはきっと止めよう。そう心に決めて、私は泣き続けた。今まで溜め込んでいた分全部を出し切るように、解き放つように、声を上げて私は久々に泣いた。

 少ししてあっさりと引潮のように涙が引いた。私は腫れてみっともなく浮腫んだ目で手巻き時計を見つめる。時計は確かに動いていた時があったのに、今では凪ぎ勢い衰えて、止まっている。

 もう、私も一人で出来なきゃいけない。いつまでも、あなたに依存していてはいけないよね。

 私はそっと左腕の手巻き時計に手を添え、指をⅢのところからひょっこりと出ているリューズに滑らせた。

「一回巻いて、その手を離さないままそっと戻す。こうすると痛まないんだよね」

 ゆっくり上に巻いて、そのままそっと下に戻して、また上に巻く。

 あなたがいなくなっても、私はあなたの大事にしてきたものを覚えている。私だけはセラムの意味を知っている。どれだけ遠くに行ってしまってもそれだけは変わらない。

 リューズを限界まで巻くと、まだ時間が狂ったままの時計が動き出した。

 カチッカチッと元気よく真っ直ぐに秒針は音を奏で始める。私は止まっていた時間を今度は自分の手で取り戻した。ここまで来るのに随分時間がかかったけれど、それでも私は一人でリューズを巻くことができた。

 少なくとも当分はがむしゃらに、動くつもり。


END


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