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【ネタバレ注意】君たちはどう生きるかの感想

※こちらは映画を観た個人的な感想の為、考察といったかしこい意図も、正しい(?)解釈といったものは一切書かれていません。ご注意ください。

子供の頃観たジブリ作品と、大人になってからのジブリ作品は見え方が全く異なる

 小学生の時一番最初に話しかけた友達はいつしか私の親友となって、私が引っ越してからも仲良しだった。
 親友と久々に遊ぶことになって、その時観た映画が“千と千尋の神隠し”だった。
 当時、作品名でしか映画を認知していなかった私はそれがジブリという括りにあって、大好きな魔女の宅急便と同じ制作会社だったなんて微塵も知らない時だったと思う。
 ポップコーンを用意して、いざ、親友と二人観たその映画の感想は、ただただ“怖い”だった。まだ小さな子供だった私はあの映画からどうしようもない不安を感じた。お母さんとお父さんが豚になっちゃったらどうしよう。私の両親は結構強欲だから、多分目の前のただでごちそうを用意されたら食べちゃえって言って食べちゃうに違いない。なんなら私も食べちゃうかもしれない。
 洞窟を抜けた先にいる神様達が異様で怖い。よきかなの仮面の神様は一体何をもって良きかなだったのか。温泉が気持ちよかったってことでいいの? あんな神様が満足できるようなおもてなし私にはできない。カオナシに追いかけられたら、自分だったらどう逃げよう。あの列車に乗って一人で、しかもカオナシと一緒に先に進めって言われたら、私がもし千尋だったらちゃんとその足は動くのだろうか。
 たくさんの不安に押しつぶされそうになる映画だったのを未だに覚えている。
 冒頭に出てくる中華街のような薄暗い場所を歩き、そして両親が豚になってしまう。そんな夢を何度も何度も見た記憶もある。
 小さな頃に観たあの映画を私は大嫌いだったし、二度と見たくないと思った。トラウマ作品だった。

いつの間にかすっかり大人になって、それから観たジブリ映画

 真夏の夜に、金曜ロードショー。そして毎週連続して放映されるジブリ作品達。
 受験も終わり、就活も終わり、落ち着いた時に改めて歳を感じつつテレビをつけるとそこには昔見た千と千尋の神隠しの最初のシーンが映った。引っ越しをする荻野一家。お父さんの運転が荒く、うちのお父さんとどこか似てるなんて思ったなぁなどと思いながらビール片手に椅子に座り、「これ苦手なんだよね」と家族に愚痴る。
 今となってはスタジオジブリというのは千と千尋の神隠しだけではなく、大好きな魔女の宅急便やナウシカ、ハウルの動く城、ちょっと解釈違いではあるがゲド戦記といったタイトルも生み出した会社だとわかっている。
 もう大人だし、あの小さな頃の私よりも世界ははるかに広がった。
 改めて今、千と千尋の神隠しを、大人になった私が見たら違った見方ができるのではないか。
 そんな風に思いながらも震える心でトラウマに臨んだ私は、この作品の中にたくさんこめられたメッセージで串刺しにされたような気分になった。
 この物語、単に怖いだけじゃない。千尋が自分自身と戦って成長していく物語だったんだ。そして私が常に感じていたあの怖いという感情もあながち間違いではなかった。千と千尋の神隠しは、タイトル通り千尋と両親が神隠しにあうお話だ。そして三人が迷い込んだのは神様たちの世界。神域というものはどこか常に緊張感があって、人が不躾に踏み入ってはならない場所で、例えば神社にお参りに行く時やしめ縄の先の奥地を見つめた時にそのピリッとした緊張感のある空気を感じたことがある人も多いのではないだろうか。荻野一家はその神様達の世界に飛び込んでいくのだ。序盤で泣く泣く両親と離れた千尋は湯宿で働きながら、未知で得体のしれない神様達の給仕をし、言葉を交わし、時には背に湯をかけ、泥を流す。あのドロドロとした汚れもよく見ると少し透明がかっていて、昔は土や泥と思っていたがもっと他の意味合いがあるのかもしれないと思えるようになった。子供の頃の私はきっとそういった得体のしれない未知なるものに恐怖していたのだと思う。だから、怖いしか言えなくて恥ずかしいのではなく、あの時怖いと感じた自分自身の気持ちも全て千と千尋の神隠しという映画と共に覚えていようと思いここに綴る。この気持ちすらも今回の新作映画を観る上でとても大事な感覚に思えたのだ。

行くか行かないか、迷った私

 久々に、何も情報の無い状態で映画を観てきた。というのも今回の“君たちはどう生きるか”は事前にタイトルと一枚のフライヤー広告のみが明かされていただけで、全ては秘密。非公開だったわけだ。CM広告もない。主人公も、キャストも主題歌も、何一つ情報が無い。
 私は自分が強制的にあの子供の頃に戻った気持ちになった。あるのはただ、それがスタジオジブリの新作であり、宮崎駿の原作・脚本・監督であるということ。それだけ。映画の事前情報は無く、面白そうかも、というその気持ちさえ持たせてもらえない。
 タイトルに“君たちはどう生きるか”という一文とそして何かを見つめている鳥がそこに在るだけの広告。

 既に何か説教じみているような気もする。正直この広告を見た時点では行くかどうか迷っている自分がいた。むしろ、多分行かないだろうな、寄りの気持ちであった。だってタイトルから見るに、これは多分宮崎駿の説教話に違いない。
 そして、なんやかんやで私は劇場のシートにスプライトと駄菓子屋で買ったちいかわのポップコーンを持って座ったのだった。

大きく予想を裏切る物語と展開と私が望んだスタジオジブリがそこにあった

 ジブリと言えば圧倒的作画。自然や人の表情をきめ細かく切り抜いた世界感が魅力の一つだ。今回の作品ももちろん多様にその要素が盛り込まれていた。冒頭、まず印象的に映るのは人為ではどうにも抑えられない炎々と燃える炎。人々の雑踏の中、その赤い炎に向かう主人公。人々の言葉が聞き取れそうで聞き取れない。あえて聞き取れないようにしているのだろうとわかる。主人公にとってはその話声なんてどうでもいいのだから、聞こえないのが正解なんだろう。
 久石譲のピアノと共に、鷺の羽さばきが耳を横切り、水辺に着地する。池の水にその細い足を滑り込ませる。池の水の冷たさまで想像させられる。その一瞬一瞬の細かすぎる描写に私達の体は本来この自然と共にあったのだというのを思い出させてもらうような、異様な感覚に陥る。多分、そう思った時点でもう私は宮崎駿の世界に引き込まれていた。圧倒的作画はあの得体のしれないポスターからはまったく図れないが、間違いなく顕在していた。

原作はコレ

 今回原作と言われているのが『失われたものたちの本』。
 人はある日出会った本や、映画、漫画や絵画、芸術作品に時々どうしようもなく突き動かされることがある。昨日まで見えていた世界が反転して全く違うものに見えるような。人生を変えてくれるというのは決して大げさではない存在達。今回宮崎駿が魅入られたであろう作品がこの本らしい。この作品から八十歳近く(いつ映画を作り始めたのか謎だが)の男に映画を一本作らせるだけの魅力があるのだと思うと読まずにはいられない。

脚本について

 今回書かれた宮崎駿の脚本には力強さがあった。タイトルの迫力があまりにもありすぎて若干、否、かなり説教じみて見えるのが正直もったいない。内容的にはそこまで強烈に説教臭いかと言われればそうではなく、八十二歳となった宮崎駿が静かに、しかしメラメラに燃えた思いを語っているように見えた。創作するということ。それを人生にしてきた人間の思いを鑑賞する者達にぶつけてくるこの作品を、私は好きだと思った。
 宮崎駿の脚本は原作をぶちやぶってでも前に出る確固たるメッセージがある。それをどう受け取るか。下らない、おしつけがましい。そう言ってしまうのにはおしいと思えるほどに、この映画に込められた願いに思いに馳せるのは苦ではなく、最後の米津玄師の歌と共に見たエンドロールと共に私は思わず、上を見てしばらくの間ハンカチで目をおさえたのだった。

 君たちはどう生きるか。この映画は間違いなく宮崎駿にしか描けない世界だ。

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