対人支援職は人を「救う」ことが出来るのか

どーも、あんどぅです。
最近はめっきり気が向いた時だけ更新するスタイルとなっております。

さてっ

こんなツイートをお見かけいたしました。

これ、とーーーっても共感するんですよね。

「助ける」とかもそうなんですけど、、、

「救う−救われる」「助ける−助けられる」という関係性における非対称性が好きじゃないんですよね。

「私は誰かを救う(助ける)べき存在」というのは「救われる存在」がいるわけで、そこには見えない上下の認識があるように思うのです。

そして、その上下の認識が私はあまり好きではない!!

なんつーか、、、傲慢じゃない?
私の中でまだ気づいていない傲慢さを抱えているとは思うのだけど、できる限りアンインストールしたいと思っています、傲慢さを。





ここで唐突に私が経験した「救ったエピソード」のご紹介です。

私は過去に「何も出来んかった…」と思っていた方の最後の介入の時に「あんどぅさん、また誰かを救ってあげてくださいね」と言われたことがあるんですよ。

いやー、泣きましたよね。
何も出来ない、ちっとも支えられんかったと思っていた私の言葉や行動の何かしらがこの方にとって「救い」だったんだ…と(T ^ T)

まぁ、社交辞令って可能性もありますがww
ここでは書ききれぬ文脈から察するに、その時の私たちはその人に救われた!と思って頂けたんだと思います。


これは「救われた」というフィードバックを貰ってはじめて気がついた「救ったエピソード」なんですよね。
とは言え、やはり「救う」というのは独善的に感じてしまうんですよ。

「救われた」という人がいれば結果的に「あれはその人にとって救いだった」とわかるけれど、私には「救っている」という感覚はないわけです。

つまり、対人支援の場において「救えた」という過去の現象(認識)はあれど「救う」っていう未来予想は無理ゲーなのではないかと思う。(救命の分野であれば「救う」「救える」という予後予測はあると思う。)

そして、自分のエピソードを披露しておいてアレなんですけど社交辞令として「救われました」と言ってしまう感情もとても理解できるので一概に言語的なフィードバックのみを過信してしまうのも危ういと思っていますww



そもそも「救われる」というジャッジは「救われた人」にしか下せないのだと思う。

支援者が「救おう」だとか「救う」と言うのは、そのジャッジを奪う言動なのではないかと思う。

ただ!

支援を続けていくことで、“結果として”救われる人はいるんだと思う。



対人支援職である私(たち)に出来ることなんて、本人が望んでいることに向かうプロセスの中で、どの部分を担える可能性があるのかという提案とそのプレゼン、そしてそれが採用されればその実行くらいなのかもしれないなぁ🤔

その結果として「救われた」と認識する人はいるのかもしれない。
ただ支援者の「救う」という言葉で、本人の「救われる」というジャッジを奪ってしまわぬように。愛が白けてしまわぬように。。(急に尾崎豊w)


あと最後に、、、

支援者個人に向けられた「救われた」という言葉だとしても、その裏にはその支援者個人を支える人たちが沢山おります。
それを個人に“だけ”向けられた「救われた」と思い「私が救った」と認識してしまうのはとても危ういなーと思っております。はい。



それでは、自分のエピソードを棚に上げたnoteでした!!(むしろ、あの言葉に私が“救われた”のかもしれないな〜)

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