ヘッダー哀愁

クズ星兄弟の哀愁【一気読み】

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帯

introduction

「かぁちゃん! 死なないで! かあちゃん!」
 また、いつもの夢だ。
 真っ白な顔でベッドに横たわる母親に縋りつく6才の自分を、病室の隅に立って見つめている夢。
 それは、これまで何度も何度も、繰り返し見てきた過去の残像だった。

 その日の正午ごろ、野暮用を済ませた“セイ”こと星崎シンジは昼間の歌舞伎町を一人歩いていた。

 夜になれば毒々しい原色のネオンと薄暗がりの薄膜に覆われるこの街だが、陽の光は、道端に打ち捨てられたゴミクズや、煤けたビルの隙間に巻き散らかされた嘔吐物、壁やアスファルトにこびり着いた血痕など、この街に蠢く悲喜交々の痕跡を顕にしてしまう。

 そんな昼間の歌舞伎町を歩くセイの、金髪リーゼントに前歯の欠けた歯、背中に龍の刺繍が施されたスカジャンに鋲のついた革靴という風貌は、どこから見ても街のチンピラだが、最近は相棒と2人、この街を根城にする『何でも屋』として少しは顔を知られるようになっている。

 道すがら顔見知りと挨拶を交わしながらも、昨夜、馴染みのおっパブで楽しんでいたセ自分を置き去りに、1人で仕事を済ませてしまった相棒であり兄貴分でもある葛生タツオの事を思い出し、セイは多少の憤りと寂しさを感じていた。
 ボスからの電話でその事を知り、慌てて葛生にかけた時には、既に事は終わっていたのだ。

 兄貴分は“おっパブでお楽しみ中に呼び出して、不貞腐れたお前の顔を見たくなかった”と言い、次からはちゃんと連絡することを約束したが、実のところ、それが彼なりの気遣いであることを、この数年の付き合いでセイにはよく分かっている。
 誰に対してもぶっきらぼうだし、特にセイに対しては息を吐くように憎まれ口を叩く葛生だが、本当は誰よりも人を気遣う優しい男なのだ。
 その分、何でも1人で抱え込んでしまうところがあって、セイは葛生のそういう部分を心配しているし歯がゆくもある。仕事の度に他人の気持ちまで引き受けてしまうから人一倍疲弊してしまうのだ。

「もっと気楽に生きられればいいのに」

 口に出してみるが、それが出来ないから葛生が苦労はしている事も、セイには分かっていた。

「セイちゃんは、気楽に生きるデショ?」
「あれ? マリアさん」
 後ろからかけられた聞き覚えのある声に振り返ると、1人の女がセイを見上げていた。
 まだそれほど寒くはないこの時期に、しっかりダウンを着込み白いハンドバックを持つ女の身長は150cm前後。ぱっと見は少女のようだが、目力が強く背筋もピンと伸びているため、不思議と貫禄を感じさせる。
 彼女の名はマリア。家族を養うため、フィリピンから日本へ単身出稼ぎにやってきた2児の母で、セイが足繁く通うおっぱいパブ「エンジェル」で働くおっパブ嬢でもある。

「マリアさん、こんな時間に出歩くなんて珍しいじゃん」
「今日は早番ダカラ。これから掃除と開店準備ヨ」
「へ? 掃除もマリアさんたちがやってんの?」
 店の掃除は、専門のパートを雇っていたハズだが。
「掃除の人が辞めちゃったからネ。ワタシがやるって店長に言ったヨ」
「へぇ、マリアさんは働き者だねぇ」
「ソウヨ。イッパイ働ク。マネー増えル。家族喜ぶデショ」
 マリアは白い歯を見せてニッと笑ってみせた。大家族の彼女は、その小さな体で子供だけでなく、両親の生活費まで稼いでいるのだ。
「マリアさんは偉いね。でも、あんまり無理しちゃダメだぜ。体を壊したら元も子もねえんだから」
 するとマリアは、セイに向かってチョイチョイと手招きをする。何かと思って身を屈めると、彼女はいきなりセイの首筋に両腕を回してハグした。
「ちょ、ちょっとマリアさん!?」
「セイちゃんは優しいネ。いつもワタシの心配してくれる」
 それは異性へのハグではなく、家族や親しい人への親愛を表すハグだ。
 マリアの身体からは、甘い香水の香りに混じって、ほんのりスパイスの香りがした。

「セイちゃんも、イッパイ働いてお店来てヨ! ワタシ、サービスするヨー」
 眩しい笑顔を残して職場の方に走っていくマリアを見送りながら、セイは「敵わねえな」と苦笑する。
 セイがどこかで彼女に母親を重ねていることを、マリアはきっと気づいているのだろう。
 小さな体でたった一人、セイを育てるため昼も夜も働きながら、決して笑顔を絶やさなかったあの人はしかし、セイが6歳の時に過労が原因でこの世を去った。そんな母親の面影を、セイはマリアに重ねている。

 近いうちにまた、彼女に会いに行こうとセイは思う。
 だが、セイがマリアと再び会うことはなかった。永遠に。

2

 長い煙突から立ち上る細い煙を、借り物のスーツに身を包んだセイはぼんやりと眺めていた。最愛の母を失った6才のあの日と同じように。

 関係者と神父立ち会いのもとで簡易的な葬儀が行われたあと、遺族の意向もあってマリアの遺体は日本で火葬後、遺骨だけを故郷に送ることになった。
 各種手続きについては彼女が働く「エンジェル」のオーナーだけでなく、歌舞伎町では顔役の一人であるセイと葛生のボスも(金銭面も含め)尽力してくれたらしい。

 葬儀を終えて以降、セイは事務所兼自宅に戻ることなく、昼も夜も歌舞伎町を歩き回っていた。
 自慢のリーゼントは崩れ、尖った顎や窶れた頬には無精ひげが伸び、殆ど眠っていないため血走っった細い目は殺気に満ちている。まるで荒んでいたチンピラ時代に戻ったようなセイの様子に、顔なじみの客引きや店の人間も声を掛けるのを躊躇うほどだった。

 マリアの死は自然死でも病死でもはない。給料を故郷に送るため郵便局へと向かう道すがら、突然バイクに乗った何者かにバックを引ったくられそうになり必死に抵抗。倒れた拍子にそのままバイクに数十メーターも引きずられた挙句、交差点で反対車線に投げ出され対向車に轢かれてしまったのだ。

 そんな彼女の最後を知ってから、セイは犯人を探し1人でこの街を歩き回っている。
 別にアテがあるわけではない。
 ただ、じっとしていると狂ってしまいそうになる。
 だから、こうして昼も夜もなく、ただひたすら歩き回っているのだ。

 マリアの葬儀から約1週間目の夜だった。突如、セイのスカジャンの裏ポケットがブルブルと振動する。スマホの着信だ。だが、セイのスマホは事務所に置いてきたハズだった。
 訝しみながら取り出してみると、それはセイのスマホではなく、相棒の葛生のものだった。着信には「セイ」の名前が表示されている。
 おそらく、葬儀のあとセイが一度だけ着替えのため事務所に戻ったあの時だ。
 あの日、葛生はソファに腰掛けたまま何も言わなかったが、自分のスマホをスカジャンのポケットに忍ばせていたのだろう。

 セイは躊躇しつつスマホの通話ボタンを押す。
「……兄貴?」
「仕事だ」
 相棒は、ただ一言そう言った。
「俺は……」
「お前が嫌なら俺一人で行く。だが、いいのか?」
 その後に続く、葛生の言葉にセイの背中が泡立った。

「今回の雑虗はマリアだぞ」

3

 葛生のスマホを耳に押し当てたまま、セイは伝えられた住所に向かって走った。寝不足と疲労で足が縺れそうになるのを必死に堪える。

「でも、なんでマリアさんが!」
 そう、雑虗になるのは宗教に関わりを持たない、もしくは関わりを捨てた人間のハズ。だがマリアは多くのフィリピン人がそうである様に、日曜日のミサを欠かさない敬虔なクリスチャンなのだ。雑虗などになるハズがない。

「本当のところは“本人”に訊くしかねえが……」と前置きしたあとで、葛生は彼女の最後に関係があるかもしれないと言う。
「マリアって女は国にガキを残してるんだろう? そいつが強烈な心残りになっちまったのかもしれねぇ。信仰を消し去っちまうくらいに」
 セイの目が葛生の姿を捉えたのは、葛生が話し終えた丁度その時だった。

 二丁目の路地を入ったホテル街にある、鉄筋コンクリート5階建てのマンションの前に、いつものようにタバコを咥えた葛生と茶髪の若い男が立っていた。
 ゼイゼイと息を切らしながら近づくと、葛生は顎で横の男を指し「依頼人だ」と言い、男は落ち着かない様子でセイを見た。
「夜、仕事を終えて部屋のドアを開けたら、中に雑虗がいるのを見つけて慌てて逃げたそうだ」葛生は簡潔すぎるほど簡潔に状況を説明する。
「けど、なんでソレがマリアさんだって分かるんだよ」
 セイの問いに、葛生は男を見る。自分の口で説明しろと促しているのだ。
「先日の事故の時、俺はあの交差点で信号待ちをしてて……、それであの女の人の顔を見てたし、そ、それにニュースでも顔写真が出てたから……」
 男はセイとは目を合わせずに早口でそう言う。

「事故で突然死んじまう時、霊魂は助けを求めて最後の瞬間たまたま目に入った無関係の人間に憑いちまうケースが稀にある。今回も恐らくそういう事なんだろう」と、葛生が補足する。
「悪いがアンタも一緒に来て、事が済むまで部屋の前で待っててくれ」と依頼人に言うと、葛生は早足でマンションに入っていった。男とセイも慌てて続く。

 エレベーターで3階に上り部屋の前につくと、葛生は男にここで待つように伝えドアノブに手をかけ――。
 そこで一旦動きを止めて、葛生はセイに目をやると無言のままじっと見つめる。覚悟はいいのか?と。
 相棒の視線に一瞬躊躇したセイだが覚悟を決めて頷く。中の雑虗が本当にマリアなら、彼女をあの世に送るのは誰でもない。自分の役目なのだ。
 セイの意思を確認した葛生は、ゆっくりとドアノブを回した。

4

 部屋は薄暗かった。
 玄関手前にユニットバスとキッチンなどの水回りがまとめられ、その奥に8畳ほどの縦長の部屋がある、いわゆるワンルームマンションというやつだ。8畳のスペースには敷きっぱなしの布団とカラーボックスが1つ、床には脱ぎ散らかした洋服やコンビニの袋、プラスチック容器が散乱していて、突き当たりには、大きな掃き出し窓とその向こうには狭いベランダがある。

「マリアさん……」
 その窓を、菌糸状に広がって覆い尽くす半透明の“何か”が、近隣のラブホテルのネオンに照らされ極彩色に点滅していた。そのところどころに赤いマニュキュアの塗られた爪らしきものが見え、セイはその菌糸が“解けた”マリアの身体なのだと悟る。放射状に広がる菌糸の中央には、石膏像のように真っ白なマリアの顔が浮いていた。
 だが、それはセイが知るあの眩しい笑顔ではない。悲しみと怒りに満ちた表情を浮かべ、じっと二人を睨みつけている。

「マリアさん……なんで…」
 セイはうわ言のように力ない声でその名を呼びながら、マリアだった“それ”に向かい、よろよろとした足取りで数歩踏み出す。

 次の瞬間。突然“それ”は部屋中がビリビリと震えるほどの絶叫を上げ、セイに向かい口から粘り気のある液体を吐き出した。
「バカ野郎!」
 後ろから、力任せに突き飛ばされたセイは、勢いのまま石膏ボードの薄い壁に肩を強く打ちつける。

「ぐっ!」
 押し殺した呻き声にセイが目を開けると、自分の身代わりに粘液を浴びた葛生の革コートから、ジュウという音と共に水蒸気が上がっていた。
 とっさに庇ったのだろう、粘液をまともに浴びたコート腕部分は薄い紙くずのようにボロボロと剥がれ落ち、庇いきれなかった顔面や、むき出しの両手の甲が火傷のように水ぶくれになっている。
「兄貴!」
 思わず叫んだセイ目掛けて、再びマリアの口から粘液が吐き出される。
 これを間一髪躱したセイは、片膝をついた葛生の襟首を掴みキッチンの方に思い切り引き倒した。

 再びマリアの絶叫が響き、口から粘液が連射されたが、セイは葛生を庇うように背中を向け、龍の刺繍が入ったスカジャンでこれを受けた。セイのスカジャンはボスからの支給品で、あらゆる霊障から身を守る効果がある。

「大丈夫か兄貴!」
 マリアの悲鳴にかき消されないよう、大声で叫ぶセイの胸ぐらを掴むと、葛生は「情けねえ面してんじゃねえぞセイ!」と、その鼻っつらに思い切り頭突きを叩き込み、思わず仰け反ったセイの髪を掴んで力任せに引き寄せる。
「てめぇ、覚悟決めてこの部屋に入ったんだろうが。だったらプロらしくしっかりやれ! それが出来ねえならさっさと出てけ!」
 叫びながら胸ぐらを掴んでいる葛生の手の甲は水ぶくれが破けてボロボロだ。ただでさえ霊障を受けやすい体質の葛生がまともに動ける状態でないのは、付き合いの長いセイの目には明らかだった。

「あぁ、すまねえ兄貴。でもよ、こんな時まで1人で抱え込もうとすんじゃねえよ。それ、悪い癖だぜ」
「鼻血垂らしながら説教しても様にならねえよ」
 そう言われたセイの鼻からは、確かにふた筋の血が垂れていた。
「いや、これは兄貴のせいだろ」
 そう言って笑うと、セイはスカジャンのジッパーを首元まで引き上げる。久しぶりの完全武装だ。
「これも使え」
 葛生がポケットから取り出したメリケンサックをセイに渡す。
 受け取ったそれを右手にハメると、セイは一つ大きく深呼吸してから立ち上がり、ゆっくりマリアに向き合った。

5

 マリアの、絶叫に脳を揺さぶられ、気を抜けば手放しそうになる意識を必死に繋ぎ留めながら、セイは一歩づつ、“彼女”に近づく。
 次々と口から発射される粘液を両腕でブロックするが、跳ねた粘液の雫がむき出しの手の甲や顔につくと、まるでタバコの火を押し付けられたような激痛が走る。
 それでもセイは、ボクサーのように両腕で顔面を庇いながら、愚直に前に進むしかない。後ろには深手を負った葛生がいる。縦長の狭いスペースで迂闊に避ければ、粘液が葛生に当たってしまうからだ。

 そんなセイに気圧されるように、マリアの攻撃は徐々に減っていき、その表情からは怒りが消えていった。

 セイがついに“マリア”の正面に立つ。
『ア……アァ…セ…イ……』
 彫刻のようだったマリアの表情が崩れ、何かを伝えようと必死に口を動かす。そして窓に張り付いた菌糸が剥がれシュルシュルと巻取られていくように、空中に手の形を作っていった。その指先はセイに向かって伸ばされている。

 セイは、その手を掴むと一気に自分に向かって引き寄せる。
 すると窓を覆うように張り付いていたマリアの“身体”が剥がれ、シュルシュルと音を立てながら、セイの胸の中で生前の形に戻っていく。
 セイはそんな彼女の背中に手を回すと、優しく抱きしめた。

『セイちゃん、ごめんネ。痛かったデショ。ごめんネ』
 彼女もセイの背中にそっと手を回すと、子供のように泣きじゃくる。
「何言ってんだ。本当に痛いのはマリアさんだろ」
 そんな彼女の髪を撫でるセイの声は柔らかい。
『ワタシ、死んじゃったヨ。イッパイ、イッパイ神様にオネガイしたのに、神様ヒドイヨ』
 声を潤ませるマリアを、セイは何も言えずに抱きしめる事しか出来ない。
『ワタシ、死んだら、2人の子供たちどうするノ。ママも、パパも困る。ワタシ、まだ、死にたくないヨ。セイちゃん』
「ごめんよ。俺がもし神様だったら、絶対にマリアさんを死なせたりしないけど、俺は神様じゃねぇから、マリアさんのこと助けてやれないんだ。でも、マリアさんの家族のことは、俺が必ず何とかするから。約束するから……だから――」

 何も心配せずに、ゆっくり眠ってくれ。

 そう言って、セイは右手にハメたメリサックを、彼女の背中からそっと心臓に押し当てた。心の宿る臓器に。

 小さな呻き声を漏らすと、マリアの身体は再び解け、端から淡雪のように溶けていく。そして最後に残った彼女の唇も、傷だらけのセイの頬に優しいキスを残して消え、同時にセイや葛生の火傷も消えた。

 セイはその場に蹲り、空っぽになった自分の胸を抱きしめながら、声を上げて泣いた。

6

 セイが落ち着くのを待って、葛生は依頼者の男を部屋に招き入れた。
「土足で入っちまったのは許してくれ。靴も俺たちの仕事道具の一つなもんでね」
 葛生の説明が耳に入っていないように、男は落ち着きなく目を泳がせる。
「それにしても今回は災難だったな。普通は事故で死んだ霊が、たまたま居合わせた、無関係の人間に憑くなんてことはめったにないんだがね」
 葛生は構わず饒舌に話し続ける。いつもぶっきらぼうで最低限のことしか話さない彼とは別人のように。

「普通、事故死の霊ってやつは自分が死んだ場所に縛られるか、そうでなければ自分が執着した物や人に憑く事がほとんどでね。例えば大切にしてた物とか、酷く恨んでいる人間とか。今回のケースで言えば、散々バイクに引きずり回された彼女を轢いちまった車の運転手か、バイクに乗った引ったくり犯。とかな」
 “ひったくり犯”と聞いた瞬間、男の肩がビクリと上がる。

「あとは、俺たちみたいに霊感の強い人間なんかは向こうも分かっちまうから、助けを求めて憑いちまうわけさ。だから、あんたみたいに現場に居合わせた“だけ”の人間に憑いちまう可能性は限りなくゼロに近い」
「な、何が言いたいんだ!」男はヒステリックに声を荒げる。
「別に。ただ専門家として非常に珍しいケースだって話をしてるのさ」
 葛生がいなすように言う。
「分かった。分かったから、もう帰ってくれよ。アレは消えたんだろ」
 葛生は「そうだな」と言ってセイにチラリと目をやる。
「俺たちはただの祓い屋で、警察でも何でもねえからな。例えあんたが例の“ひったくり犯”だろうが、捕まえることは出来ねぇ」
「はぁ!? 何言ってるんだアンタ!そんなわけ――」
 再び声を荒げる男の鼻っつらに、葛生は小さな白いハンドバックを突きつける。革の肩下げ紐は伸びきって千切れかけ、血の跡らしき赤いシミがついていた。
「仕事中、キッチンの棚でコイツを見つけたよ」
 男を睨みつける葛生の目が、針のように細くなる。
「コイツは、テメェんじゃねえよな」
 そのバックにセイは見覚えがあった。マリアが持っていたお気に入りのハンドバック――。
「ち、違うんだそれは――」

 男が言い訳を終える前に、メリケンサックをハメたままだったセイの右拳がその顔面にめり込んだ。 

7

 後ろに引っくり帰った拍子に床に後頭部を強か打ち付け、セイは我に返る。
 見上げると葛生が息を切らしながらセイを見下ろしていた。先程まで掛けていたサングラスはなく、右目の端が腫れている。
「そこまでだって言ってんだろうが! このバカが」
 起き上がると、血に染まりジンジンと痛む拳の先に、原型を止めないほど顔を腫らした男が仰向けに倒れていた。

「それ以上殴ったら死んじまう」
 そう言って、セイの握ったまま固まってしまった右手の指を一本ずつ引き剥がすように開くと、葛生は血まみれのメリケンサックを外して革コートのポケットに放り込む。
 部屋の外から数人の足音が近づいてくる。恐らく葛生が警察に連絡したのだろう。と、セイは思った。

 これで全て終わったのだ、と。

8

 結論から言えば、部屋に入ってきた男たちは警察官ではなかった。

 2人の厳つい男を従え部屋に入ってきた、オールバックに銀縁のメガネを掛けた男を、セイは知っている。
 ストライプ模様の細身のスーツに身を包んだ男は、蛇のような温度を感じさせない瞳で、倒れている男を見下ろす。
「マムシ……」
「おいおい、沢木“さん”だろ。セイちゃん」
 男の名は沢木浩二。通称マムシの沢木と呼ばれ、街の人間から忌み嫌われていた。
 表向きは人材派遣会社の社長だが、その実体は借金で首の回らなくなった人間を債権者の依頼で“買い取り”、労働力として主に海外に“転売”し利ザヤを稼ぐのを生業にしている。

「た、助けデ、オマワリさん……」
 意識を取り戻した男が、何を勘違いしたのか沢木に手を伸ばし助けを求める。沢木はそんな男の前にしゃがみこむと、伸ばされた指に懐から取り出した名刺を挟む。
「どうも、ワタクシ人材派遣会社S・K社長の沢木と申します」
 男は事態が飲み込めず、ポカンとした顔で沢木を見る。
「今回、そちらの葛生さん他数名の方からご紹介頂きましてね。多額の借金を背負ったアナタに、割のいいお仕事をご紹介するためお邪魔した次第です」
 一見丁寧な言葉遣いに聞こえるが、沢木の声に敬意はない。いわゆる慇懃無礼というやつだ。

「何を言っで……」
「おやおや、まだ事態が飲み込めていらっしゃらない。つまりはこういう事ですよ」ニッコリ笑う沢木。だが、その蛇のような目は一切笑っていない。

「テメェが殺した女のガキが成人するまでの20年間、俺の紹介した会社で働いた金で女の家族を養うって事だ。労災なし、休日も福利厚生もなし、一日18時間労働で飯は1日1回。年間数十人が過労死する究極のブラック企業だが安心しろ。もしも場合もちゃんと借金返済できるよう生命保険はウチで掛けといてやる。まぁ運が良けりゃぁ、生きて日本に帰れるかもな」
 説明を聞いて絶望したような表情を浮かべる男を見て、沢木は心底嬉しそうに広角を上げると、後ろに控えた2人に目配せをする。すると、男たちは手馴れた様子で、持ってきたズタ袋に男を押し込み、あっという間に肩に担いで素早く部屋を出て行ってしまった。

 セイは、未だ自体が飲み込めないまま、その様子をただつっ立って見ていた。沢木が「毎度あり」と葛生の胸をコツンと叩いて部屋を出ていくと、部屋は静寂を取り戻す。

「兄貴、これって一体……」
「あのクソ野郎の責任をお前が背負うことはねぇ。自分のケツは自分で拭かせりゃいい」
「じゃぁ、兄貴は最初から?」依頼が来た時か、もっと前からか、葛生は最初からあの男がひったくり犯だと知っていたのだ。

「お前がアホ面下げて歩き回ってる間、俺がどれだけ苦労したと思ってやがる。まぁ、野郎がボスに仕事を依頼したのは想定外だったがな」
 自分が犯人を探しアテもなく歩き回っていたこの一週間、葛生は方々ツテを辿って犯人にたどり着いていたのだ。そうとは知らず、1人で空回りしていた自分が情けなくて、セイは苦笑を浮かべた。
「俺は、バカだな」と自嘲気味に呟くセイに、葛生は「まぁな」と相槌を打つ。
「だが、お前が鬼みてぇな顔で毎日歩き回った事が噂になって、結果、野郎が慌てて尻尾を出しやがった。まったくの無駄ってわけでもねえさ」

 コイツは最初から最後まで、マリアとお前の事件だったんだ。

そう言って、葛生はセイの肩を小突いた。

epilogue

「仕事だ」
 事務所の奥の間で布団に包まって高イビキをかいていたセイを蹴飛ばし、葛生は、いつものようにぶっきらぼうな口調で告げる。
「こんな朝っぱらから?」
 セイが寝ぼけ眼でスマホの時計を見ると、まだ午前7時だ。
「今回の依頼人は、山の手の社長夫人様だ。お前みてぇな“ぐうたら”と違ってちゃんとしてんだよ。いいから四の五の言わずにとっとと支度しろ。あと、そのみっともねぇ無精ひげも剃れ」
「……昨日の優しい兄貴は幻だったのか」
 セイが芝居がかったため息をつくと、葛生は「うるせぇよバカ野郎」と言って、事務所に戻っていった。

 マリアの事件が終わり、久しぶりに事務所に戻ったセイは泥のように眠り、長い夢を見た。
 夢に現れた女性はマリアだったのか、それとも母親だったのか。
 セイにはもう思い出すことが出来ない。

おわり

帯

続き↓


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