メイフノサクラ


『桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている』と書いたのは確か梶井基次郎だったか。
 文学というものに凡そ縁のない俺は、何処かで聞き齧った、その冒頭の一文しか知らないけれど。

 それでもこうして、見上げる者の視界を薄紅色に染めながら、その心を奪わずにはいられないほど妖艶に咲き誇る桜の樹を見上げると、『桜の樹の下には~』はどという戯言を思いついた男の気持ちも、多少は理解出来るような心持ちになる。

 もっとも、今が春の時期なら俺もそんな事は思いもしなかったに違いない。何故なら春に桜が咲くのは当たり前だから。
 けれど今は、木々は青々とした葉を蓄え、蝉の鳴き声が五月蝿く響き渡り、首の下から湧き出た汗が開襟シャツの裏側を渓流のように幾脈も流れ落ちている。

 夏なのだ。

 だというのに、目の前に立つ桜ときたら、薄紅色の花を枝という枝に咲かせているのだから、文学に興味のない俺が、思わず梶井基次郎の有名な一節を思い出してしまうのも仕方致し方ないのではないだろうか。

「あの……」
 目の前の奇妙な光景にすっかり心を奪われていた俺は、後ろから掛けられた声に飛び上がる程驚いた。もしかしたら「うわぁ」と情けない声を上げていたかもしれない。

 慌てて振り返ると、そこに立っていたのは若い女だった。
 年の頃は22、3だろうか。烏の濡れ羽色の長い髪に薄紅の色留袖姿の女は、切れ長の目で俺をじっと見つめていた。
「驚かせてしまってごめんなさい。お見かけしたことのない方だったから、もしかして何か困っていらっしゃるのかと思いまして」
 あまり抑揚を感じさせない上品な口ぶりで話しかけられ、俺は少々狼狽しながら、
「あ、いや、実は道に迷ってしまって。うろうろ彷徨い歩いているうちに、この桜の樹を見つけて眺めていたのです」
と応えた。
「あぁ、この冥府の桜ですか」
「めいふの……さくら?」
「ええ、この桜は季節に関係なく一年中花を咲かせているのです。今だって真夏だというのに、こんなに花を咲かせているでしょう? その姿が此の世の物とは思えないから、冥府の桜」
 女の言葉に俺は、なるほどと返す。
「しかし、立派な桜ですな。樹齢も相当なものなのでしょうね」
「ええ、この桜がいつから此処に在るのか、誰も知りません。多分、桜本人も忘れてしまったのではないかしら」
 女はそう言って薄く笑う。
「なるほど。本人が忘れてしまうほど昔から在るのなら、花を咲かせ続けるのも分からんでもないですな。きっと季節も何もかも忘れてしまっているのでしょう」
 俺の軽口に応えるように、風もないのに小さな花たちをザワザワと揺れる。「お前が言うのか」と嘲っているようだ。

「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている」
 不意に女が口を開いた。言葉の真意が分からず見つめる俺の顔を、女は見つめ返して薄く笑う。
「この桜もずっと『沢山の屍体』を根の下に抱えて生き存えてきたのではないかしら」
 そうなのかもしれない。と俺は想う。
 この桜はそうやって、沢山の屍体から生き存える為の養分を貰う代わりに、春となく夏となく秋となく冬となく、咲くことなく散っていった屍体たちの魂を、想いを、代わりに咲かせてやってきたのだろう。と。

 そしてやっと。

「ほら」
 女が指す先には、今まさに花開かんとする一つの蕾があった。
 夢に敗れ、絶望し、世を呪い、己を呪いながら、手の中の全てを投げ捨てた阿呆な男のその想いは、永い永い時を経て、土の中で分解され、大樹の中で消化され、その枝の先に芽吹いた小さな蕾となって。

 そしてやっと。

「行ってらっしゃい」
 女が薄く微笑んで言う。
「行ってきます」
 俺も女に微笑んで応えた。

                                おわり

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あとがきのようなもの

ぷらすです。
この小説は、櫻さんの「スゴろくnote」の企画、「桜集め。2015」用に書きました。
桜と聞いて、真っ先に思いついたのが梶井基次郎の短編『桜の樹の下には』の有名な冒頭の一文でした。
ホラーテイストな作品にしようと思って書き始めたんですが、何故かこんな仕上がりにw
書きながら色んなアイデアが浮かんでは消えていったんですが、最終的に、舞台と時代と物語を限定しないで、どうとでも取れるボンヤリした感じに仕上げることだけに専念して完成させたのが、この「メイフノサクラ」でした。
短い物語ですが、お楽しみいただけたら幸いです。




 

 
 


 

 


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