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旧統一教会と反ワクチン運動

安倍元首相が旧統一教会に恨みをもつ者に銃殺。
以来宗教団体と政治の関係について連日報道がなされている。

オウムにせよ統一教会にせよこの手の宗教団体はお布施として財産をむしり取るのがうまい。宗教とは何か、というのを考えればエキセントリックな話で、キリスト教にせよ仏教にせよ信仰することで成り立つはず。なのにそこに財産のやり取りがなければ信仰心を評価できないシステムを異常視せずのめり込む、信者になる、財産をお布施する、自分もしたのだからお前も財産をお布施しろと強要する(かどうかしらないが、、、)などの行動はまっとうな宗教家からしたら奇抜な行動に映るだろう。

そもそも宗教団体に多額の財産が必要になるというのもおかしな話なのだがそもそも宗教とは何かという定義からして考えてみればひっかかることはないだろう。ブッダの考え、生きる知恵みたいなものが仏教の始まりだが彼の教えは現在でいう信仰とはかけ離れすぎていてむしろ哲学だ。煩悩に振り回されず、未来を不安視せず、今を精一杯生きようね、一言で仏教を語ればこれにつきる。この話の中にどこに金銭が入り込む余地があるか、ないだろう。

さて、こうした本来の宗教ではなくカルト的な宗教においてなぜこうもハマっていくのだろう。そもそも宗教とはという自問がなければ、抽象思考が苦手であったり、理知的に物事を考える習慣がなかったりがその最大の理由であろうと考える。すこぶる科学的、でなくとも理知的に考える習慣があれば『おや??おかしいぞ??』とはなるはずだろう。しかしそうならず多くの人がハマるのは個人的には反ワクチン運動の非科学的な信仰に構造が似ている。


反コロナワクチン信仰というものがある。まだ科学的検証がなされていない事象でさえ、あたかもそうであるかのような曲解した解釈を加えワクチンは危険であると言い切る。言い過ぎだ。

ここで誤解してほしくないのは、もしかするとコロナワクチンをうつと○○な合併症が生じるかもしれない、とすら考えるなと言っているわけではない。○○かもしれないという可能性を考えることが科学を推し進めてきたわけだから、疑問に思うというのは大事な科学的思考の一つだ。

しかし、我々は物事を科学的に理知的に見なければならない。もし、ある可能性を考えたならそれを立証すべく実験をするか論拠を示さねばならない。多くの場合ここが抜け落ちている。そして多くは『I think~』に終始する。これはいただけない。可能性を可能性のまま終わらせているのにも関わらず○○と思うというだけで論拠はないのだから。そして質が悪いのは○○だと思う、がいつのまにか○○である、にすり替えられることだ。恐怖である。

思うこと、つまり意見の範疇であるがいつのまにか事実の範疇であることに気が付かない。意見と事実があいまいな集団はその時々の気分で世を眺める。論拠のない世界はあいまいな世界だ。宗教が何たるかを語る繊細緻密な議論ではなくあいまいな世界で語られる理想郷はカルト宗教の神髄であろう。社会的に詳細にみればどう考えても詐欺集団だが信者から見ればオーラをまとった聖職者集団に見えるではないか。

通常理知的な人は実験を繰り返す。もしかしたら、、、と考えたら実験してみて再現性を確認するのである。私はMMA(総合格闘技)が好きだが青木真也選手というのがいる。寝技の特異な選手だが勝ち筋はシンプルである。彼は相手選手への体重のあずけ方から何から非常に科学的だ。それは裏を返せば試行錯誤の結果だ。試行錯誤とは、AをしたらBという結果がでる、でももしかするとCという行動をとってもBという結果が出るかもしれない→Cという行動をとってみる→Bという結果がでた!、Cという行動でもBという結果が出ることが証明できた、というように科学的に、理知的に思考を積み重ねた結果技術を積み重ねられた=強さの証明をしたのであろう。

話を戻す。我々が学生時代それこそ小学校では○○を読んでどう思うかばかりの授業だった。教師は生徒の考えを否定しない風潮がそのころからあったがそもそも小学生の考えは○○をきちんと読めておらずこう思う!と主張するものの前提が間違っているから主張も頓珍漢であることは多々あったように記憶している。頓珍漢な感想を持つ生徒に、『どう書いてあったの?』というところから始めなければいつまでたっても無自覚に『I think~』と事実の距離は埋まらない。物事の抽象性と具体性を行ったり来たりもできぬ。とすると未来は信仰にすがる頓珍漢な大人が量産されようがそれは仕方のないことではなかろうか。


我々の社会のこの癖(へき)は病的であることを自覚せねばならない。それを是正するのは教育であるし、政治であるし、科学であるし、最初と最後は対話である。やってみせ言って聞かせてさせてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。山本五十六の言葉はもはや今を憂う言葉に変ったのではないだろうか。

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