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「わたし」というフィルター

この季節の散歩が、好きだ。

背中には、ぽかぽかとした太陽のぬくもり。
時折、首筋をなぜる風は少し冷たくて、通り過ぎようとする冬の気配を感じる。
道端には、ひそやかに息づく、色とりどりの春の息吹。

散歩の途中で、何度もiPhoneを取り出す。

こんなに美しい情景を、自分の目で見るだけは物足りずに、永遠にその瞬間を切り取ろうとする、人間の欲深さたるや。
全人類を代表して、そんな自分の悲しい性を感じつつも、満足気にシャッターを切り続ける。(シャッターを切るって、iPhoneの場合は言わないのだろうか・・・)

大輪の真紅のバラも、凛と咲く純白のダリアも素敵だけれど、野の花の美しさだって、負けてはいない。
大勢の中ですらっと抜け出して、風に揺蕩う1本のナズナ。
小さな黄色い蕾をほころばせる、菜の花。
触覚のようにかわいい花弁を、ツンツンと空に向けて開くホトノケノザ。
どれも、大地の上で咲くからこそ、一際、美しく輝くのだ。

散歩の途中で、思わず目を奪われる光景に出会った。
重なり合う、名もない草の葉の上に、朝の雫が今にもこぼれ落ちそうに鎮座していた。
そこに、柔らかな春の日差しが当たると、まるでダイヤモンドを散りばめたかのような無数の輝きが、緑の中で弾ける。

当然、iPhoneをかざす。

・・・あれ?

iPhoneを外して、もう一度、肉眼で確認する。
緑の中のダイヤモンドは、相変わらずの美しさで、確かにここにある。

角度を変え、アングルを変えて、何度もiPhoneを構え直す。

・・・??

不思議なことに、肉眼で見えていたあのダイヤモンドの輝きは、iPhoneを通すと、全く普通の葉っぱと水滴にしか見えないのだ。

何度も何度も、iPhoneを構えたり、肉眼で見たりを繰り返す。

太陽の日差しを、私の腕や体が妨げているわけでもないのに。
何度確認しても、私の目には映る「ダイヤモンドの輝き」が、iPhoneを通すと、影も形もなくなってしまう。

現実世界の事象としては、なんら変わらない一つの光景が、私の目とiPhoneのレンズとでは、違う光景に映る。

・・・もしかしたら、私が見ている景色は、誰もが見ているわけではないのかもしれない、とふと思う。

少なくとも、無機物であるレンズを通した時には、「ダイヤモンドのような輝き」は現象としては現れないのだ。

有機物であり、かつ「おくやま・ふみ」の肉眼を通した時にだけ、見える現象。
「わたし」というフィルターを通して見えている様々な景色は、もしかしたら「私にだけ見えている世界」がたくさんあるのかもしれない。

「ダイヤモンドの輝き」を見つけられた私のフィルターは、まんざらでもないな、とにやりとしながら、iPhoneをポケットにしまった。


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