仮面ライダーBLACK SUNとかいうサブカルクソ野郎の脳の煮こごりみたいなやつの話

大満足ですよ。だって中村倫也が変身するんだもん!という冗談(本音だが……)は置いておいて、真面目に感想を書いていく。
※私が仮面ライダーBLACK未視聴、尚且つグロ耐性も人並み以上であるという前提で話は進んでいきます。また、ネタバレや前後関係、未視聴の方には説明不足な点などが多々あります。ご容赦を。

まず、冒頭の話。いきなり子どもの腹が麻酔なしで、ぐちょぐちょ弄られてるのがパンチがありすぎて笑わざるを得なかった。このシーンを見た瞬間、いくら大人向けと言えどもやっぱり仮面ライダーというものは東映特撮なのだなと思った(暴太郎戦隊ドンブラザーズ、ドン33話などを見てもらえれば東映特撮の雑手術を見ることが出来ます)。まあ、肉なのか臓器なのかなんなのか分からない物がひたすらぐちょぐちょしてるのでそこだけ大人向けなのだが、これ以降の手術シーンも、東映特撮特有の雑手術+グロって感じで進んでいくため、リアリティとかそういうものを求めている人には苦しいのかもしれないなと思う。私は面白すぎて毎回笑っていたんだけれど。
と、全シーンについて語っているとキリがないなと書き始めてようやく気づいた。なので、今回は以下にある、三つの項目に分けて書いていく。
1.山岳闘争と昭和のディテールについて
2.怪人と人間の話
3.大人の話

まずはじめに、山岳闘争と昭和のディテールについて。これは元ネタである仮面ライダーBLACKが昭和ライダーであることと、仮面ライダー50周年ということの二つが原因となって起こったことだろうと推測する。昭和と聞いて。何を思い浮かべるか。昭和は長い。それ故に、終戦、高度経済成長、と様々なことが言える時代である。では、平成、令和との違いは何であろうか。ひとつに、若者の活気というものはあげられないだろうか。私もだが、平成に生まれた人間は、景気が良くなるということを知らない。それに、ここから先、景気が良くなるとも思っていない(少なくとも私はそうである)。デモに参加する若者や、デモを起こそうとする者、世界を変えようと動く者、そのような力強い若者は、昭和の時代に比べてめっきり減ってしまったのではなかろうか。それに、今から50年前、1972年といえば、あさま山荘事件がちょうど起こった頃である。カップラーメンを食べるシーンがあったところなどから、数ある学生運動、山岳闘争の中でもあさま山荘事件をモチーフとして、扱っていることは明らかだ。昭和や当時の若者、そしてその青さや熱気を表現するため、あさま山荘事件をモチーフとし、日本を変えようとする若者を描いたのは、頷けるようにも思う。日本を変える若者を描くとなると、政治がいやでも絡んでくるのだが、それ以外にもこの作品で政治が描かれなければならなかった理由は何か。一考の余地があるように思う。
次に、人間と怪人の話をしたい。
この物語の肝、メインには、差別がある。
仮面ライダーBLACKSUNは、仮面ライダーBLACKSUN役である西島秀俊や仮面ライダーSHADOWMOON役の中村倫也が主役ではあるが、物語は高校生の和泉葵を中心に展開されていく。主人公以外の登場人物視点で物語が描かれるというのは、現行作品の暴太郎戦隊ドンブラザーズや仮面ライダーギーツでも取られている手法のため、最近の東映特撮の流行りのようなものなのかもしれない。
和泉葵は、人間の身体でありながら、怪人差別の反対、怪人、人間を問わず平等であるべきという意見を持ち、国連で表彰されているという、怪人平等派の象徴的存在であった。彼女を見て、私はジャンヌ・ダルクを思い出した。同時に、大きな力によって逆らえない何かに飲み込まれていく未来もうっすらと感じていた。本当の彼女は、心からそう思っているのだろうか、彼女の自意識が象徴たらしめているのだろうかと思いながら見続けていると、ゴルゴム党(敵ではないのだが、敵方と言うとわかりやすいかもしれないので、今回は敵としておく)の幹部、ビルゲニアの手によって怪人にされてしまうという事案が起きる。その時の葵は、怪人になるということを受け入れられず抵抗する。この行動によって、平等を謳っているけれども、やはり怪人を下に見ているという彼女の本音が透けて見えるのだ。この後に、彼女の友達で、怪人と共に徒党を組んでいた外人(人種差別に苦しんでいた所からこの怪人の平等を謳うゴルゴムに入ったため、あえてこう表現する)の子ども、ニックが純粋に怪人に憧れている描写が入るのがまたにくい。無邪気に「俺バッタがよかったな〜」などと言う所も、ニックという青年の若さと、生まれながらの純粋な差別への思いを演出するのに一役買っているようにも思う。
1話の時点で、国連でのスピーチの後、学校の先生から「自分の言葉で伝えられましたね」と賞賛の言葉を貰っている。ここで登場する「命の重さ」についての文言は、ニックの父が平等を訴える際に述べていた言葉である。それが葵の両親に伝わり、葵に伝わったのだ。つまり、所詮葵の言葉は借り物なのである。このことも、より一層ニックやその父親の、本心からの差別反対、共存共栄という思想が色濃く表現されていると言えよう。同時に、和泉葵という少女の、少女らしい、高校生らしい浅さが一段と感じられるのである。
次に、小松俊介の話をしたい。彼は人間と雀怪人の間に生まれた、雀怪人である。
彼は和泉葵と友人関係にあった。言動から察するに、告白していないだけで、二人とも両思いだったのだろうとは思う。葵の平等への思いや行動は、彼の存在が大きい。彼は怪人であるため、人間よりも強いと思っているような描写がいくつか散見される。特撮特有の、クリスマスで死にそうなキャラと言えばいいか、とにかく、若く、無鉄砲な感じのするキャラクターだ。
彼は怪人である。そして、怪人と人間の子どもである。当然、怪人差別反対派にいる。葵や家族と一緒にデモに参加する描写もとても多く描かれている。彼がデモに参加しているのは、当然だろう。明確に描かれてはいないが、彼の両親は恋愛結婚なのだろうと想像出来る。つまり彼は、怪人差別の無くなった先にある、怪人と人間が平等な世界、理想世界の象徴とも考えられよう。しかし、彼の横には常に葵が居たのだ。既に、象徴として存在が確立された存在がいたため、彼に対して象徴という印象は薄くなるように設計されている。
しかし、私はこの物語においての、怪人差別の根絶の象徴は、やはり小松俊介だと思うのだ。その理由は、上記のものの他に、もうひとつある。それは、我らが中村倫也の演じる秋月信彦が信念を定め、動き出すきっかけが小松俊介であるということだ。
俊介は、前述した通り、自分の強さを過信し、無鉄砲なキャラクターである。この過信を強めたのは、他でもない秋月信彦だ。2話で、アネモネ怪人と戦う雀怪人の描写がある。ここで雀怪人はアネモネ怪人にひたすら頭部を踏みにじられ、瀕死の寸前の状態に陥る。ここで彼を救う為にヘブンを飲ませたのは秋月信彦であった。ヘブンの接種によって抉られたようにぐしゃぐしゃになった目も全て元通りになった小松俊介は、死なないという成功体験を得る。これにより、彼の自分の強さへの過信は加速する。その様子は、デモの参加や、人間の葵を守るという行動によって嫌なほど描かれている。葵は、怪人と人間の平等の象徴である。それと同時に、物語のキーとなる、キングストーンを保持しているため、当然ながらゴルゴム党や怪人差別主義から追われる羽目となる。しかし、小松俊介が命を散らすのは、ゴルゴム党との攻防ではないのである。ここに、実に小松俊介が普通の、ちっぽけな存在であることが暗に示されているように感じる。結果として小松俊介は、怪人排除を謳う人間側のでも団体に嬲り殺されてしまうわけだが、ここの人間側と怪人側の対比の構造が上手い。人間よりも怪人の方がよっぽど普通なのである。例として弔いの描写がある。小松俊介、つまり怪人側の方は街の人からも弔いの花を手向けられ、両親は怒り悲しみ、友人の葵ももちろん悲しみと、丁寧に弔う描写がなされている。しかし、人間側にそのような描写はひとつも見られない。
このリンチによる小松俊介の死は秋月信彦の正義をの炎を更に大きく確かなものにする。それがよく表されている部分は、小松俊介をリンチしたデモ団体の中心的人物を、怪人特有の怪力という実に真正面の方向から、秋月信彦は破壊する所であろう。そして秋月信彦は、ゴルゴム党というかつての居場所に自分の正義があると信じ、それまでどっちつかずであった自分ではない新たな、創世王(怪人の大ボスみたいな者)の後継者になれる自分として寝返るのであった。ゴルゴム党や秋月信彦の思想はどんどんと人間廃絶の方に傾いくのだった。
この作品は、それぞれの思想があるから戦える、思想の元に戦っている、者を殺めているという描写が非常に多い。それ故に嫌煙されてしまうこともあるだろう。しかし、考えてもらいたい。ニチアサと呼ばれる作品も、結局は自分の正義と相手の正義のぶつかり合いであることが多かろう。時代背景的に、山岳闘争と絡めるとなると、その正義が露骨に思想となって出力されてしまったという訳だと、私は推測する。まあ、私は思想強めで嬉しかったのですが。
そして最後に、大人の話をしたい。
和泉葵の親、信じるに値する大人は、いったいいつ変わったのだろうか。初めはもちろん、実の親や養母であっただろう。クモ怪人に追われる中、西島秀俊演じる南光太郎に助けてもらい
、彼に護身術を学ぶこととなる。ここで彼女の親は南光太郎になったのだろうか?それは違うだろう。まだ彼女は実の両親に会いたがっていた。しかし、対面した父親は、既にビルゲニア(ゴルゴム党側)によって、怪人に改造されていた。実父に南光太郎に習った護身術を使った時、私は彼女の中で頼れる、信じられる、親のような存在がハッキリと変化したように感じた。それと同時に、人間と怪人の平等などという自分が今まで語ってきた理想論の弱さを知ったのだろうと思う。最終回のラスト、彼女が仲間と共に護身術を子どもたちに教えているのもまた上手い。南光太郎という存在が、彼女の中で、実の両親よりも大きく確かな存在になっていたのだろうと、改めて感じることが出来よう。

長くなってしまったが、とりあえずの感想としては以上である。2回目、3回目と見る回数を重ねていけば、更に面白く見ることが出来る作品だろうなと、私は思う。
でもやっぱり中村倫也かっこいいっすよ。


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