神社は再読み込みボタン
『神頼み』
困ったとき、思い悩んだとき、
神社があると神様にお願いしたく手を合わせる。
通勤の道すがら、小さな神社がある。
都会の喧騒の中にありながら、ひっそりとした趣のある神社なのだ。
保育園の園児が遠足に来たり、
犬の散歩をさせている方、
運動の途中に立ち寄る方、
スーツに身を包み祈る方、
多くの方に親しまれている。
私も通ると立ち止まり頭を下げる。
でもなかなか事態が進展しなかったり、自身がだいぶ落ち込んでいるときは、
『祈ったってしょうがない』
と思ったりもして、そんなときはただ通り過ぎてしまう。
でもちょっとだけでも頭が整理されてきた兆しを得たときや、
少し気持ちがスッキリしたら
神社へ向かって自然と頭を垂れている自分に気づく。
それは祈りの礼ではなく、感謝の礼なのだと思う。
きっと、こちらの浮き沈みもずっと見守っていてくださったことに対しての礼なのだろう。
そして新しい考え、想いにアップデートされそうな脳内へと、新たな環境を実装するために、再読み込みするためのボタンみたいな存在なのがこの神社なのではないか。
一旦、鳥居の下で立ち止まって
ボタンを押す。
それは特定な信心とかではなく、
ひとつの装置としても
神社は機能しているのではないか、
ふと再読み込み出来そうに感じた私が思い至った感想である。
おしまい
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