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0215「やっぱり人間フォロワー数」

昨日から週末にかけては、日本から大事な来客があるので、いろいろ対応する感じになる。私は、こないだの日記でフォロワーなんか気にしちゃダメだよ、とか言いながら、実は思いっきり人の(Twitterの)フォロワー数を気にしている。「フォロワーの数はその人の価値じゃないよ」とか言いながら、常に相手のフォロワー数と自分のフォロワー数を比較して生きている。とんだ言動不一致野郎だ。

もう8年も前になるが、東京にPARTYという会社をつくった。その会社は、当時のデジタル・クリエイティブの先端を行くクリエイティブ・ディレクターが集まったスーパーチームみたいな鳴り物入りで始まった。幸いにも私は創立メンバー5人の末席を汚させて頂いた。

ところが、私はその5人の中でいうと、「五天王の中で最弱・・・」みたいな存在だった。ゆえに、私は常に会社の中で劣等感にさいなまれることになった。

まず、一人だけ発注側の広告代理店ではなくて、受注側の制作会社出身だった。それはまあいい。現場を背負って、制作を背負って業界に殴り込むのだ。

ところがそれに重ねて、劣等感を抱く原因になったのが、これは上記の出自にも関係するのだが、私は5人の中でただ一人、国際広告賞の審査員をやったことがなかった。広告クリエイティブ屋さんにとって、国際広告賞の審査員というのは大変な名誉で、なんていうか、「やっと俺もここまで来たか」的な分水嶺ではある。特に、カンヌ映画祭の広告版の、カンヌ国際クリエイティビティーフェスティバル(いつも長くてわからなくなる)の審査員というのは、その中でもとても一目置かれるポジションで、PARTYはその筋ではかなりのスーパーグループだったので、私以外の4人は国際広告賞どころか全員カンヌの審査員をやっていた。すごい。

そういう人たちに囲まれていると、とにかく劣等感を抱くことになる。何か会議で発言するにも萎縮しがちになる(一応その後、カンヌの審査員は2回もやっているし、なんかもうそのへんは大丈夫だ)。

で、Twitterのフォロワー数だ。CCOの伊藤さんが15,000とかで、他の3人も10,000超え。それに引き換え、私は当時6,000そこら(今でも7,500)。圧倒的敗北だ。「自分には影響力がない」。そんな気持ちが襲いかかる。「フォロワー数がソーシャル時代の戦闘力」みたいなことを考えてしまって、どんどん辛くなる。自分は人間としてのステージが低いのだ。

それ以降も、いろんな人にフォロワー数を抜かされ、落ち込む人生が続いた。たまにお仕事をさせて頂いているコルクの岡本さんは、初めてお会いした頃は取引先の制作会社のバイトだったのに、去年、糸井重里砲も手伝って、瞬時にフォロワー数で抜き去られた。

岡本さんのフォロワーがガンガン増えていた頃は、毎日岡本さんのフォロワー数をチェックしていて、Xデーに恐怖していた。そしてXデーが来た。もう私の時代は終わったのだ。俺の平成が終わってしまうのだ。そして、東京出張時に岡本さんと顔を合わせると私は、涼しい顔をしてフォロワー数には触れず、「やあ。岡本さん元気?」とか言っているのだ。なんてズルい大人なのか。本当は悔しいのに、本当は泣きたいのに、泣けば良いんだよ!

しかしそんなものは当たり前で、岡本さんはちゃんと役に立つツイートをし、短歌を発表し、受け手が喜んでくれるためのグロースハックをしている(世の中の「インフルエンサー」と呼ばれる方々は、その部分を本当に丁寧にやっている人ばかりなので、それは本当にすごいことだし、とても大変な職能だと思う)。

それに引き換え私はエアリプ状の謎文言や告知が中心だし、最近日記のリンクしか貼ってないし、そもそもあんまりTwitter使ってないという、単純に努力してない問題というのがある。フォロワーが増える理由がない。岡本さんは、フォローされる理由がたくさんあるのだ。

だから要するに何が言いたいのかというと、フォロワー数はそんなに気にしなくても良いとか言いつつも、フォロワー数多いのは、多くの場合、その人の脳内を垣間見たい、とか、その人の言葉が心地よい、とか、有用な情報をたくさんくれる、ということなのであって、それは単純に尊いことだなあということである。

そういう意味で、やっぱりフォロワーがたくさんいるということは、凄いことでそれに応じて尊敬すべきことだなと思う。

フォロワーが多い人の意見が収穫逓増するマスっぽい構造はインターネットの退化だと思っているが、事象を憎んでも人を憎んではいけないと思う。

今日の来客は私よりフォロワーが2.5倍程度多い。しっかりがんばろう。

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