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0704「それはジャズじゃない」

今日はアメリカの独立記念日でお休みだが、明日は移動日というか日本行きの飛行機に乗るので、休まずにわりと働く。

今までに仕事をしてきた中で、自分の中でのやってはいけないやらかしとして十字架になっている出来事が2つあって、いろいろ時効なので書く。

たまに共有するのだが、私はこの業界で働き始めたというか、所帯もあるのに就職してゼロからスタートしたいと思うほどに脳が暴走したきっかけとして、「頑張って良いものをつくったプロジェクトのスタッフクレジットに自分の名前が入っていなかった事件」というのがある。たまに共有してしまうが、下記の記事に書いている話で、あのときの悔しさが常に私の原点だ。

私がクレジットというものにものすごくうるさい人間なのは、そういう「生まれ」だからだ。我ながらものすごくうるさいと思う。何しろ最初のトリガーがこういう出来事なものだから、それは全く変わらない。

逆に、これも何回か書いたことがあるのだが、就職してすぐの時期、「BIG SHADOW」という、渋谷のいま電気屋さんになっている駐車場の脇の壁に巨大な自分の影が投影されるという、当時としてはかなり先駆的な屋外インスタレーションの仕事に携わったことがもう1つの原点になっている。

まずこれは横道にそれるが、当時、ウェブサイトを中心とした制作会社に就職して1年未満だった超下っ端の私は、この案件のプロジェクトマネージャー(進行管理係)として参加していた。この案件はウェブサイトという「画面」の中に収まるものではない画面の外で実際の人たちに生で体験してもらうプロジェクトだったので、当時としてはかなり異質なプロジェクトだった。私の立ち位置は、プロデューサーである上司のサポート的な役回りだが、下っ端としてなんでもしなければいけない、テレビ番組の制作なんかだと、ある種ADのような立場だった。重ねていうが社歴も短い「超」のつく下っ端である。

プロジェクトマネージャーというのは、半分怒られて嫌われるのが仕事のようなところがあるとは思うが、このプロジェクトでの私は、デザイナーからもプログラマーからも、上司からもいろいろ求められては怒られる立ち位置だった。ウェブサイトはいくつかつくってきたが、こういう仕事は勝手がわからなかったし、とても苦労した。電子機器の配線から何から、いろんなことを学びながらどうにかした。映像の素材づくりで、現場とBunkamuraの向かいのドンキホーテを何往復もしてネタを揃えた。プログラマーが足りなくて、ヤケクソ気味に自分でプログラムを書いて、どうにかしたりした。今思えば、最初に「テクニカルディレクター」的な動きをしたのはこのプロジェクトだったと思う。人がいなかったのでやらざるを得なかった。

で、何はともあれプロジェクトが始まった。2006年の年末のことだ。駐車場にでっかいイントレ(足場)を組んで、その上にでっかいプロジェクターを複数台置いて重ねて、でっかい影を壁に投射した。イベントは数日間続いた。ある種無茶なプロジェクトで、雨や雪が降ったらプロジェクターを保護したり、いろいろケアが必要だったが、幸い序盤は晴れていた。身重の妻が、運営スタッフの皆さんにたこ焼きを差し入れしてくれたのをすごい覚えている。

が、3日目だったかに恐れていたことが起こった。雪が降り始めた。プロジェクターのレンズが結露して、投影している映像が見えづらくなった。私は下っ端だったので、ずっと一人で現場に詰めていた。雪が強まっていく中で、レンズを拭きに行けるのは私しかいなかった。雪で滑る中、15メートルの足場をよじ登って、どうにかプロジェクターの場所にたどり着いた。レンズの結露を一生懸命拭いた。そこからしばらく、雪が少なくなるまでそこでレンズカバーを拭き続けた。

ふと、下の会場、お客さんが光るパネルの前で動いて、影を取得する場所の方を見てみた。雪の中、お客さんが、生身の人間がキャッキャ言いながら、私たちがつくったでっかい影を見て盛り上がっている。歓声が聞こえる。

この瞬間のことは絶対に忘れられない。自分のモチベーションの原点が上記のクレジットの問題だったならば、自分の「つくり手」としての原点は間違いなくこの瞬間、渋谷の駐車場の足場で雪の中プロジェクターのレンズを拭きながら、自分たちがつくったものを楽しんでいる人たちの姿を目にしたときだ。いつもはウェブサイトをつくっているので、ウェブサイトでの体験を楽しんでいる人たちの反応を生で見ることはできない。

しかし、このとき、「自分はこの人たちを相手にものをつくっているのだ」ということがはっきりわかった。ウェブサイトをつくっていようが、サービスをつくっていようが、アプリをつくっていようがなんだろうが、画面の向こうにはそれを使ったり、楽しんだりしている人が必ずいて、それが初めて自分の前に具現化された形で提示されたのが、あの瞬間だった。あのとき足場を登っていなかったら、未だによくわかっていなかったかもしれない。

で、この仕事が自分の原点になっている理由はもう1つあって、当時としては新しい表現だったのもあって、このプロジェクトは翌年にいろんな広告賞を獲りまくることになった。その際に、スタッフクレジットというものを提出して、それが受賞作品のところに掲載されるわけだが、私は、どういうわけか、クリエイティブディレクターの伊藤さんの次の2番目にクレジットされていた。上述の通り社歴の浅いスーパー下っ端であったにもかかわらずだ。私は当然、会社的にも自分の上司が上に来るべきだと判断してそういうリストを提出したが、伊藤さんが断固として私を2番目にしたらしい。「あいつが一番動いていた」ということで、そこにこだわってくれたらしい。

伊藤さんのその計らいには、感謝以外の何もなく、これが「キビダンゴ」になって、最終的に一緒に会社をつくることにまでなった(もう私は出ちゃったけど)。いつぞやも書いたが、何かをやる上で、スタッフクレジットというのはそれだけ繊細で大事なものだ。大きなプロジェクトとうのは自分1人でできるものではない。その次のプロジェクトでも、同じチームでやることになるかもしれない。そういうときに、しっかりと「この人たちと一緒につくりました」という形で残すことは、「仲間」として一緒に仕事をしたことの証なのであって、「俺がつくった! 俺がつくった!」と手を挙げるのではなく、しっかり仲間をリスペクトして紹介をすることで、次のプロジェクトでは受発注関係以上の「仲間」として一緒に動ける。

私はジャズをよく聴くが、たとえば、演奏しているのが「上原ひろみトリオ」であっても、上原ひろみは、ベースのアンソニー・ジャクソンとドラムスのサイモン・フィリップスを紹介しないことはない。ビッグバンド・ジャズで大人数のバンドでも、1人1人のメンバーを紹介しないバンドなどはない。いかに外国人の読みづらい名前であっても、しっかり間違えないで呼ぶ。これは常識だ。そこにあるのは仲間に対する基本的なリスペクトだ。

演奏が終わったときには、一緒に演奏した「仲間」を紹介する。そうすれば、その人たちは、今度はこちらを仲間だと思って、もっと良い演奏をしてくれる。自分が言い出しっぺになった集まりの名前を「ベース+ドラム」にしているのは、アンソニー・ジャクソンとサイモン・フィリップスを、最大限のリスペクトを持って観客に紹介する上原ひろみの姿に影響を受けているっちゃ受けている。

で、冒頭に触れた「十字架になっている出来事」2つというのは、反対に自分がクレジット周りで配慮が足りない表記に関与してしまった出来事で、1つは今一緒のチームでやっている村上さんのスタッフクレジット表記を、ユニクロさんの案件で飛ばしてしまったこと。もう1つは、トヨタの「Backseat Driver」で文化庁メディア芸術祭の賞をもらったときに、PARTYが、クレジットをPARTYの人間だけで固めてしまって、現場のスタッフの名前がどこにも載らなかったことだ。実際、そういうのが重なって、当時のPARTYは「お客さん」として「仲間」でいられなくなったところがあった。特に後者は、私の判断ではないけど意図的な判断だったと思うので、タチが悪い。このへんの出来事は、今考えても胸がキューッとなる。

私は自分が気づいていないところでたぶん他にもやらかしていて、それはいくら注意していても起こってしまうことではある。自分をちょっと顧みても、いくつかある。ので、これはいわゆる「自戒を込めて」的な話だ。

しかし、演奏が終わったら、ヴォーカルとかギターとか、ピアノとか、前に立ってマイクを持っている人はとにかくまずはバンドメンバーを紹介する。のど自慢でさえも、必ずバンドメンバーの紹介が行われる。それがないのならそれは、アイドル歌手の後ろで仕事をするスタジオ・ミュージシャンと同じで、それは「仲間」ではなく「お仕事」になってしまう。それは、何らかの音楽なのかもしれないが、ジャズじゃないのだ。 

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