【日記】4/7-4/9

セントエルモの火

 本を読んでいたら、「セント・エルモの火」というフレーズが、唐突に出てきた。
 何かで聞いた気もするけれども、意味が思い出せない、と最初は思った。ふと、船の舳に、雷か何かが降って光る現象があったのを思い出したけれども、それと「セント・エルモの火」が一致するのかどうか、ちょうど思い出しただけで、自信がなかった。
 それで、実際に調べてみたら、本当にそういう意味だった。頭の中で、完全に結びついていたわけではないけれども、無意識の中で、同時に出てきた単語として、湧いてくるように、どこかにセッティングされていたのだろう。
 また、この場合、「この現象の名前は?」と問われた場合に、「セント・エルモの火」という単語は、出て来ないのだろう。逆からは辿れないし、単語から思い出しても、うまく結びついているかどうか自信が持てない、というそういう記憶のレベルで、そう考えると、やはり何かを「理解する」とか意味を「把握する」、「知る」といったことは、全く一様ではないのだというのを、こういう時に思い知る。
 調べて、ウィキペディアの上では、中黒はなく、「セントエルモの火」という項目名で立項されていた。
 エルモというのは、別名では聞いたことがあったが、エラスムスのことであるとの事だった。だが、「痴愚神礼賛」などで有名なエラスムスではなく、別の聖人であるらしい。キリスト教の殉教者で、船守の聖者であると。
 キリスト教は一神教で、三位一体という聖性の統括があることがアイデンティティだ、とよく言われているが、殉教者や聖者、教皇や神父など、さまざまな聖性の分割はあるので、この「~~の聖人」など、エレメンタルな聖人がいるような所は、トーテミズムに限りなく近づいている。
 これは、キリスト教が未発達であるなどということではなく、宗教は他のものも全てそうなっている。仏教においても、大日如来という、存在と力の大元があり、それが二つに分離し、四つに分かれ、という具合に姿を変えて、我々の世界を形成しているという立場を取っている。大日如来からすべてが来ているという意味では、一神教と言っていい。だが、現場で働く聖なる力は、限りなく個物の形に分割してやってくる。これは、ひとつの宗教の力で、世界のすべてを説明するという義務があるから、しっかりと体系化された宗教であるなら、全てこういう構造になっている。
 だから、一神教があり、多神教がある、というデジタルな分類はあまり意味がなく、それぞれの宗教の実存において、どのような分割と倫理が働いているのかを見ることだ。これも、比較宗教学的な見方だといえば、そうだけれども……。

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