【日記】桜と人間

 桜は満開の時より散り際、花弁と花芯と若葉の入り混じった、一見すると汚いようにも見えるけれどもこれ以上なく変化に富んだ多様な色彩を含んだ樹様を見るのが目に楽しいと、今まで思っていたけれどもこれを代弁してくれた人がいてありがたいと思った。判官びいきの感覚もここにはあるかもしれない、季節を外して桜の花見のシーズンは人がいて過ごしにくいので藤を見るのだと言って、花見はせずに有名な藤棚に足を運んだのもいい思い出だ。出店で焼かれていた塩焼の鮎を食い、ビールを飲んだ。飽くことなく、藤の垂れ下がりを眺めた。
 生き物のいちばん生き物たらしめているものは、その混雑した様子、一筋縄ではいかない構成、変化して簡単には映像化しないありさま自体、必死につながろうとして恥をかく生き方それ自体であるといえる。桜の全色交じったような姿は、全国に全く同じ染色体のばらまかれた、だが生命としての変転を忘れてはいないあがきの色として、醜くも美しい姿を見せるのではないだろうか。人間も、そのようなものだろう。

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