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シュルレアリスムと仏教思想②

鈴木大拙氏の著書【禅】より
釈迦牟尼が悟りをひらくとき、問うものと問いの区別、自己と非自己の区別は消えて、ただ一つ未分の「不知なるもの」があるのみであった。
自我を意識する自己もなく彼の知性に相対して彼の存在をおびやかす問いもなく、さらにまた、頭上を覆う天もなく、足下を支える地もなかった。
二元の消失が「無為」であり「空」である。「無為」というのは「条件によって存在しているものの消失」
心が「無為」に到ったという時「絶対空」の状態に入ったということ、一切の条件制約から全く自由であるということ、「超越者」であることを意味する。言い換えれば、心はいまや生と死を越え、自己と非自己とを越え、善と悪を越えて、その究極の実体を得るのである。
明も暗もそもそものはじめから実体は同一のものである、暗から明への転化は、ただ内面的もしくは主観的に行われたにすぎない。だから、有限は無限であり、また無限は有限である。それは二つの別のものではない。現実的にまた絶対的に一つであるものを我々が二つに引き裂くところに間違いが生じる。

アンドレ・ブルトン【シュルレアリスム第二宣言】より
生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと伝達不可能なもの、高いものと低いものが、そこから見るともはや矛盾したものに感じられなくなる精神の一点が必ずや存在するはずである。そこで、この一点を突きとめる希望以外の動機をシュルレアリスム活動に求めても無駄である。

この二つの文を比べて我々はどう考えるだろうか?同じことを言っているとは言い切れないが、類似していないとも言い切れないのではないか?
ブルトンが第一次世界対戦という地獄の底で見た天国のような精神世界の景色と仏陀が人の内側、その奈落の底にみた景色が、似ていてもおかしくないのではないか?
C.Gユングの言うところの集合的無意識、そのさらに下に【何か】がある、というのは、オートマティズムをつかう作家なら誰もが感じることではないだろうか?
ジョアン・ミロやジャコメッティは飢餓を使って精神の深層領域に潜っていたようだが、千日回峰行のような厳しい修行も実は彼らと同じところを目指して行なっているのではないか?

私がそう思う最大の理由は実は私自身のアートにある。オートマティズムを10年以上研究し、やがて私の作品は宇宙の構造や生物の脳の構造にどんどん近づいていった。そして、ついに生命となった作品に、偶然に死が与えられたとき、作品は生命であったときよりもなぜか美しくなったのだ。
私は不思議に思った。なぜ死が与えられることで、生命だったときよりも美しくなるのか?
結論として、生命と死は同じものであり、同時に存在しなければならず、生命だけでは不完全だったからでないか、つまり、少なくとも生命と死ははじめからワンセットで存在しおり、ブルトンのいう二項対立の解消とはすなわち、はじめから一つのものを我々が勝手に二項対立であると認識しているにすぎないということではないのだろうか、と考えたのである。この考えに至ったのは、鈴木先生の著書を読む前のことである。ただただシュルレアリスムを、オートマティズムを研究し、追い求めて至った結論である。ゆえに、鈴木先生の著書【禅】を読んだときには激しい衝撃が走った。
そして、そこからさらに自身の内包する世界と自身のアートの研究を重ねるにつれ、シュルレアリスムと仏教思想の間には高い親和性があり、シュルレアリスム活動は仏教思想の地域、すなわちアジア圏でこそ本来の目的を達成できたに違いない、という考えをより強めていくようになったのである。

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