見出し画像

約20年ぶりの『もののけ姫』

初めて『もののけ姫』を観たのはおよそ20年まえのことだ。

なんとなく劇場に足を運び、結果、あまりに圧倒されて身動きできなくなった。その意味が知りたくて、何度も劇場に足を運んだ。あれだけ執着した映画だったのに、それ以来、観ることはなかった。たぶん、なんとなく観たくなかったのだと思う。ちょっとしたトラウマみたいな。

思い出してみると、冒頭から主人公アシタカが「タタリガミ」の呪いにかかるシーンに打ちのめされ、その後、いつのまにかこの世とも思われぬ深い森に迷い込むシーンの美しさにうっとりし、後半はもうなんかよくわからないけど、シシガミさまが大暴れしてカオス状態になったけど、どうやら平和が戻ったっぽい。みたいな、ものすごくアバウトな認識でしか本作を観ていなかった。でも、それでも十分感動はできた。

ちなみに、のちに親友になった友人は、『もののけ姫』を四回劇場に観に行ったとあとでわかり、ずいぶん驚いた。自分だけでなく、大きな影響を受けた人がいたらしい。そういえば、古武術家の甲野善紀氏も、本作に衝撃を受けたとどこかで語っていたっけ。

今回機会があって、小学生の娘といっしょに『もののけ姫』を観るべく、映画館を訪れた。20年前はストーリーすらろくに理解できなかったけれど、いま観ると、いくらか理解できるようになっていて、その分、感慨も深かった。

『もののけ姫』が自分の人生を駆動させたのか、あるいは自分の新たな体験が本作に新たな解釈を与えたのか、それはわからないけれども、いろいろと発見があって面白かった。

何より最大の発見は、本作が実は、『平家物語』のヴァリエーションであったということ。たまたま最近『平家物語』を読んだという事情もある。アシタカというのはおそらく、鞍馬天狗に育てられた、源義経だと思った。舞台は室町だというが、実際は、違うと思う。明らかに本作は、末法の世、と重ね合わせて描かれている。アシタカは、関東と東北の間のどこかの集落出身だ。
義経は源頼朝の命を受けて、平氏討伐のために西を目指すことになる。そして、その後煙たがられて義経は東北に落ち延びることにもなる。

とはいえ、西といっても九州までは行かない。というのも、舞台となるくだんの森林に、オッコトヌシという白イノシシが率いるイノシシの群れがなだれこむ、そのイノシシたちの出身地が鎮西、つまり九州だからだ。それは本州のどこか、例えば熊野のあたりだろうか。

いろんな意味ですごく気になったのが「ジコ坊」という謎めいた存在。赤頭巾をかぶって。
飄々としてすごく楽しげだけれども、信頼のおけない存在。

wikipediaで検索してみて、はじめてジコ「坊」という名前を知った。それで案の定、彼は、比叡山延暦寺に暮らした僧兵であるか、あるいはその象徴だと思った。そして彼は、いささか力を弱めた(がゆえに不老不死を望む)天皇の使者であった。迷信と欲望に動かされている人物。なぜか憎めない。

一方で、男衆のいない隙に「タタラ場」を荒らしにくる武士連、あれは、平家勢力だろう。奢れるものはひさしからず。平清盛が生前に働いた狼藉。また、マッチョな存在の象徴でもある。

じつは本作を改めて観て、この現在をもっとも反映しているのが、タタラ場を取り仕切る「エボシ」さまという存在だと思う。まさに、良くも悪くも「正しさ」の存在だ。タタラ場では女性が尊重される。また、ハンセン氏病にかかっているらしい人々が尊重される。彼ら彼女らは夜通し鉄を作っている。ジャレド・ダイアモンドの著作が売れているらしいけれど、まさに鉄は文明の象徴。
人間社会という範囲内においては、エボシさまは弱者を思いやる善人である。しかし、自然にとっては明らかな敵である。人間社会における正しさが、おびただしい無言の存在を犠牲にしてしか成立しえないというこの欺瞞を『もののけ姫』ははっきりと描いている。

つまり何が言いたいかというと、フランスの哲学者、ミシェル・フーコーが発明した概念、「生権力」(つまり、統治している国民の生をいかにコントロールし生かすかを考える権力)の危うさをエボシさまがよく体現している。

こんな言い方をして、「エボシさま」にも申し訳ないのだけれど、見方をかえれば要するにありがた迷惑でもありうるということだ。

この人間社会と明確に対立するのが、狼に育てられた少女「サン」だ。

サンは何よりタタラ場を憎んでいる。エボシを憎んでいる。親代わりの狼とは異なり、二重に人間を憎んでいる。人間の都合によって森に捨てられたことへの恨みと、エボシによって森を汚されることへの恨み。

そこへ、森も大事だし、人間社会もだいじだよね、と言いたげなアシタカが現れたらそりゃむかつくよね。いわばアシタカは両者のバランサー。

けれども、アシタカはサンにとって異性でもあった。また、アシタカにとってサンは異性でもあった。だから、惹かれずにはいられなかった。ここで本作は、いわば理屈を超えて調和へと向かう。

ここまでがマジョリティの話。そりゃ生殖と森は親和性が高い。

注目したいのはそれ以後の話。アシタカは、故郷に戻らず、タタラ場で働くことを決意する。ここは曖昧にしてはいけないと思った。アシタカはつまり、人間社会における正義の側についたわけだ。サンは自然の側についた。
これは、互いの間で何か問題が起きたら、納得のいくまで話し合うことにしようという、すごく政治的な話。まあ、間をとろうよ、的な。ここにはけっきょく、アシタカとサンとの間には、恋愛感情、つまり、過剰な感情が発露したがゆえの愚かさ(その裏返しとしての天才のひらめき)はない。あるいはそれは、禁じられているのかもしれない。

と、ここまですごく、メッセージが明確な映画だと思いながら書いてきたけれども、ひとつだけ、すごく腑に落ちない場面があった。というのは、アシタカが村から出立する朝、アシタカに命を救われたひとりの少女が黒曜石でできた首飾りを彼に託した。その首飾りを、アシタカがサンに与えたこと。その首飾りは、少女の命でさえあったのだ。この場面に自分は個人的にすごい暴力を感じた。

本作はほんとによくできた映画だと思うけれど、この一人の無名の少女の思いだけがただ踏みにじられたという意味で、実は本作のはらむメッセージは、何かが変わるためには、けっきょく暴力に頼るしかないのだということでしかないのかも、と思った。それが私の誤読と独断であることを願う。

『もののけ姫』というのは、なんら教訓的な物語ではない。今回改めて観て、ただ美しさに圧倒されるのは危険なことだなと、意外な教訓を得た。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?