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「自分以外全員他人」が描いている現代的な卑しさについて

 太宰治賞を獲った西村享の「自分以外全員他人」が面白くて一気読みしてしまった。作品全体に充満した負のエネルギーに引きずられずに耐えられる人は少ないのではないかと思う。そしてその面白さとは別に、単なるアラフォーのおっさんの自分語りを超えて、現代的な「卑しさ」を的確に捉えた傑作にもなっていると思う。
 あらすじと言うほどのものはない。主人公の柳田は40代でマッサージ店に勤めているが、仕事の疲労、同僚、上司、迷惑な客、母親、親族、交通マナー、駐輪所のトラブルなどさまざまなストレスを抱えており、他者とのコミュニケーションを苦痛に感じている。また、ストレスが高じて他人に憎悪を蓄積してしまう自分に対して自己嫌悪を抱えてもいる。彼はそのうち、他人に迷惑をかけないように「遠くに行って」美しく死のうと思うようになるが、彼を取り巻くストレスはますますエスカレートしていく。基本的には中年男の愚痴を綴るというよくある作品で、ネットでの反応を見る限り多くの人がストレスフルな日常に共感を呼び起こされているようだ。しかし僕は、この小説はもう少し別の問題を捉えているのではないか、と感じた。それは要するに、この作品がテーマにしているのは、「自分以外全員他人」な過酷な日常ではなく、むしろ「自分以外全員他人」に感じてしまう主人公のメンタリティではないかということだ。
 主人公の柳田はタイトル通り、基本的に自分以外の人間に対して不信感や憎しみなど何らかの負の感情を抱いている。例えば、柳田のマッサージ店の同僚である乙羽は軽い鬱病のようなものを患っており、それを理由に仕事の早退や欠席を繰り返しているが、柳田はそれを「被害者ぶっている」と感じてイライラする。おそらく「今どきのPTSDとかを理由に仕事を休む若者」というモチーフは、多くの中年読者の共感を集められると思う(僕は全くシンパシーを感じられなかったけど……)。
 しかし柳田もまた被害者を演じながら他人を傷つけている存在に過ぎないということもまた、明確に描かれている。柳田は「自分が嫌な人間だからこうなるんだ……」とは自覚しつつ、結局は他の人間に当たることでストレスを発散している。最後に切れて駐輪場の迷惑な利用者を叩きのめす結末は、独自性はないにしても「被害者」が「加害者」になる瞬間ー村上春樹の表現を借りれば、自分は「卵」だと主張していた人間が完全に「壁」と化してしまった瞬間を上手に描いていると思う。
 しかしここからが重要なのだが、柳田が蓄積してきた他人へのストレスを放出するようになったのは、彼が「どこか遠くへ行って死のう」と決意してからのことなのだ。数か月後、春になってから「旅立つ」ことを決めた柳田は、もはや(パフォーマンス的な)自己反省を挟むことなく、他人を攻撃するようになっていく。交通マナーの悪い人間にキレ、クレーマーを一喝し、最終的には駐輪所の利用者に暴行を働く。普通に考えると「死のう」と考えた人間は、何かを悟って憎しみを捨てて生きるか、短い余生を自分の好きなことに使って残された時間を享楽するか、どちらかを選ぶはずだ(少なくとも創作物の中ではそうだ)。しかし「終わり」を定めて柳田の精神は良い方に転がるのではなく、むしろ悪い方へどんどん転がり落ちていくのだ。
 どうしてこういう展開になっているかと言えば、その理由はこの作品における「自殺」の捉え方にある。つまり、この作品では柳田の「旅立ち」(死)が単なる人生の終わりではなく、一種のコミットメント、責任を取ることとして描かれているのだ。だから、柳田は「旅立ち」を指標にして人生を再構成していくことができず、「旅立ち」を自分が偉いと信じ込む根拠にする(誰かを殴る理由に使う)しかない。
 この小説はおそらくは筒井康隆の「敵」のように美しく死ねない人間を描いたものではなく、「自分は責任を取るのだから倫理的だ」と言いながら他者を攻撃する、新しい現代人の卑しさを示した作品だ。スタンスとしては新海誠に近い(宇野常寛は、コミットメントを果たし結果「傷つくことによって繊細な自分を確認し、より愛するというある種のナルシズム」を描いているとして新海作品を評している)が、西村はそこから一歩踏み込んで、「コミットメントの責任を取る自分」に陶酔し、他人を攻撃するタイプのナルシズムを描くことに成功している(比喩的に言うなら、「天気の子」の帆高が陽菜を救うために世界を犠牲にした自分を偉いと思い込み、天気に一喜一憂する一般人を見下すようなものだ)。この「自分は責任を取っているから偉い」というナルシズムは、実は「怪獣8号」あたりを始めとして最近の一定数の作品に見られる。村上春樹とか新海誠あたりの主人公が女性差別的な価値観を捨てて自分自身でコミットメントを果たせたとして、その先にもまた新たにナルシズムに陥ってしまう罠があるのではないか、とこの作品は警告しているわけだ。
 ただ、だからこそ、最後で暴力を振るう柳田が「皆こんなに苦しかったのだろうか」と悟ったようなことを考えるのに僕は違和感を感じてしまった。柳田は、最後まで「責任を取る自分は偉い」と言い聞かせながら他人を殴り続けるべきだったと思う。そうすれば現代人の持つ本質的な問題ーどうにかして自分が偉いという根拠を見つけて他人を貶めることを正当化しようとするメンタリティに決定的に踏み込めたのではないかと思ってしまう。最後の最後で柳田に悟らせてしまうのは、(おそらく中年の読者の共感を得るためだろうが)本当の卑しさにたどり着く可能性を遠ざけてしまったように思える。
 柳田は決して、単なる可哀想な中年のおっさんではない。僕に言わせれば柳田の周りは「自分以外全員他人」ではなく、「自分含め全員自分」だ。柳田を含め、誰もが自分が世界で一番不幸で当事者だと思い込んでいる。さらに柳田は、「責任を取りたくないから誰かに押し付ける」のではなく「自分で責任を取ることを誰かを殴る理由にする」という新しい卑しさの体現者でもある。
 しかしその卑しさは最後まで徹底されなかった。もし作者の小説を再び読むことがあれば、「現代人が皆抱えている本当の卑しさ」に心の底から嫌悪を感じてみたいと思う。


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